例会報告(7月3日 於:本研究所)

夫のシベリヤ抑留死を契機に--ある女性の戦中・戦後--(桜井厚)

日時:2016年7月3日 13:30~16:00
場所:(社)日本ライフストーリー研究所
参加者:12名

 以下、報告レジュメです。ただし、当初の報告タイトルは「シベリヤ抑留死の夫の消息を訪ねて--ある女性の戦中・戦後」となっていましたが、報告内容が、夫の死を知ることから、それまでの生き方が変わった女性のライフヒストリーが主なので、変更しました。また、レジュメでは実名を使いましたが、以下では名前については匿名にしています。質疑応答については、多くが当日出席した本報告の中心人物の長女、遠藤**さんへの質問であったので、省略し、以下のレジュメの中の⇒と下線部で、質疑応答で出たコメントをいくらか反映してあります。

はじめに
 研究所の会員の遠藤**さんから次のような依頼があった。シベリヤ抑留中に亡くなった父についての手紙をJLSRで保管し、資料として活用できないか。
 そこで直接会って話を聞くと、手紙は父本人のものではなく同じシベリヤ抑留者からの父の当時の状況を伝える三通の手紙だった。そのときはコピーだったため判読しがたい箇所もあり、可能なら現物の方がよいと伝えると、後日、現物が入手できた。
舞鶴引揚記念館への寄贈も考えたようだが、死蔵されてもつまらないということで、当時、設立したばかりのJLSRへ問い合わせたのだという。研究所としても、明確な方針が立っているわけではないが、調査のインタビュー・トランスクリプトやこうした個人的記録を保存して、今後の研究に役立てたいと考えているので、申し出をありがたく受け取ることにした。
さて、ほかにどのような資料があるか尋ねたところ、父親自筆のものなどはまったくないとのこと。ところが、嫁いだ母は、私家版の自伝や歌の冊子などをまとめており、さらに、結婚後、彼女が実家の母に送った満州からの手紙が30通ばかり残っているという。
 結局、これらを一括して戦時期の資料として研究所で保管、今後の研究資料に生かせないか検討することになった。
 手元にある個人的記録の資料は、手紙、私家版の冊子、写真アルバムなどであり、それらに加えてシベリヤ抑留中の父の死を証明する若干の公文書がある。
 本稿は、この限られた資料をとおして、何を主題として語ることができるのかを明確にする帰納的にして探索的な試みである。ただし、資料的には限られているとはいえ、幸いなことに、この資料の中心的な人物である福田++・◎夫妻の長女である遠藤**さんが語ることで、個人的記録は単なる固定したテキスト以上の意味を持ちうると思われる。

1 資料
1.1現存資料(別紙)
・手紙、はがき ・半生記などの私家版冊子 ・抑留中の死亡通知 ・写真アルバム
1.2 手紙という個人的記録
 個人的記録の意義を指摘したのは、トマス=ズナニエツキ『ポーランド農民』(1918-20)においてである。これが、その後のライフヒストリー研究、そして今日のライフストーリー研究へつながる。その際に利用された個人的記録としては、一人のポーランド人移民に書かせた自伝と、家族を中心とする往復書簡であった。この書では、農民手紙に限定して、その形式と機能を説明している。基本的機能は「挨拶」=団結(連帯)を表す。家族手紙の5類型:①儀礼的、②近況報告的、③感傷的、④文学趣味的、⑤仕事用、である。手紙の表現の特質についても指摘している。①伝統的慣用句の使用、②文学的用語の使用における混乱=新しい態度の表現→「日常的な言語規範とのちょっとしたずれが大きな効果を生む」。
 『ポーランド農民』の流れを受け継いで個人的記録に着目した心理学者のオールポートは、さまざまな個人的記録を多方面から論じながら、手紙についてはほんのわずかしかふれていない。個人的記録のなかで、日記と比べて手紙ははるかに少なくしか利用されていないことを指摘してる。これは今日でも通用する。その理由は資料の複雑さにあるが、その複雑さを構成する原理にあるのは、「日記がただひとりだけの生みの親をもっているのに対して、手紙はふたりの親をもっている」ためである。差出人と受取人という社会関係はパーソナリティ心理学では複雑かもしれないが、社会関係を扱う社会学的観点からはむしろ格好のテーマといえる。しかし、このように古くから論じられながらも、これまで手紙を正面から論じた注目すべき研究を私は知らない。
*トーマス、W.I.&ズナニエツキ、F. 1983『生活史の社会学』(桜井厚訳)御茶ノ水書房
*オールポート、G.W. 1970『心理科学における個人的記録の利用法』(大場安則訳)培風館

2 何がテーマか
2.1 結婚で満州に渡った女性が、戦中戦後をどう生きたか
・18才での結婚、・撫順での新しい生活 ・両家の関係 ・終戦直前での夫との別れ、・子どもを抱えて自力で生きた戦後 ・自立した女性像? ・手紙資料では不十分か?ただし、半生記やら、歌の冊子、実母の冊子などがある。・**さんへのインタビューも可能
2.2 資料としての手紙
・母と娘の関係(送り手と受け手)・手紙の内容分析(個人、家族・親戚関係、撫順のコミュニティ、戦争の情況) ・手紙の資料的意義 ・電話、ツイッターなど、今日の時代に「手紙」を問うことに意味があるのか⇒これについては、現在の若者の中で手紙のやりとりが復活している傾向があり、手紙資料の意義の見直しになるのではないか、との意見が合った。
2.3 家族資料アーカイブ化の意味
・遠藤**さんは、どのような観点から、父の抑留中の死をとらえ、かつ保存しようとしたのか。 ・八條△△と福田++の関係、福田++と遠藤**の関係、母娘関係、++の生き方への**の思い

3 シベリヤ抑留死を知らせる三通の手紙
3.1 ◎の死を知らせる三通の手紙
・1947年春 ソ連の抑留者一覧に◎の名前が載る。半年後、戦死の公報。遺骨と遺品(お守り、象牙のパイプ、手帖)が届く。手帖には子どもたちの写真がはさまれている(「翔鳩」)。 ・三股□□:昭和24年に自宅に立ち寄っている。遠藤**さんの記憶にもある。 ・鷲上□□:シベリヤでの作業場の指導者であり、自動車事故の目撃者。遺品を函館援護局に渡す。 ・飛田□:大分県民生部世話係から昭和23年、24年に◎の死の情況を知っていると照会された人物。 ・++は、夫の死について、その自伝内では「主人の戦死公報」の見出しをつけているが、5行程度の事実関係を記載しただけで、とくに悲嘆を表すような表現はない。主人が「帰らないとわかればいつまでもこんな生活をしているわけにはいきません」と職業紹介所へ行ったところ、小学校の先生になる好機を得たことを強調しているように思われる。 ・戦時が女性の社会進出を促したとする一般的な女性史の知見は、こうした中流家庭の女性たちにも妥当した事例といえるのかもしれない。
3.2 手紙が知らせる◎の抑留生活と事故死 (略)

4 満州へ嫁ぐ
4.1 生家 ・福田++:1914(大正3)年3月29日生、大分県中津市(奥平藩の城下町)
 ・父:八條□□(38才)単身赴任で門司の会社勤務 ・母:△△(31才) M17.8.23生(S39.2.8没) 中津高女の教師、姑の世話 ・命名の由来「鳩に++の礼儀あり」 ・妹:××(9才下) ・日常的には、祖母、母、++、お手伝いのすがさんの4人暮らし(祖母が亡くなるまで7年間) ・祖母の死:中津を離れる、++:明治専門学校1年生に転入、母:同じ小学校へ勤務 ・行橋へ(父の病気)、++:行橋小学校2年生へ転入、仕舞の稽古、父:謡曲の習い ・県外の女学校、中津高女へ入学、3年生で京都高女へ転校⇒かなりの高学歴で、名門の家とみられるが、福田++の女性としての強さは、福沢諭吉などを輩出した中津、あるいは北九州の土地柄の影響も大きいのではないか、という意見もあった。 ・卒業2年後、見合結婚、1週間目で挙式、10日目には関釜連絡船で、満州へ。「満州からの嫁探しが盛んだった頃です。本籍が同じであること、仲人がお謡の先生だったということ、他に何がわかっていたでしょうか」(「翔鳩」)「私は人形のようについて行きました。今だにその時の気持ちが自分でもわかりません。若いというより、子供気の抜けない私は、珍しいもの見たさ、見ぬ世界の好奇心、旅行にでも行くつもりで、十日前に初めて会った人に、ついて行ったのです」「泣きもしないで」翌々日の昼頃、撫順着。
4.2 福田家
・撫順 撫順駅から10分ほど、ピアノのある応接間、十畳と六畳の座敷、四畳半の化粧部屋、子供たちの勉強部屋、炊事場、食堂など、2階12畳で子供の寝室、父母、兄一人(別居)、弟7人、妹1人。自伝『翔鳩』によれば、「見習い奉公に行った気持ち」「好奇心いっぱい」「夫の存在なんて念頭になく、夜の帰りが遅くても気になりませんでした」「舅から『ふんどしの川流れ』といわれました。……でも舅の皮肉にはユーモアがありました」。 主人:満鉄のジャズバンドの一員、ゴルフ、++:アカシア短歌会、謡曲(長男が生まれるまで) ・興京 運送会社の事業拡大、長女**誕生(昭和11年6月生)、長男(昭和9年7月生)が4才のとき病死 ・撫順  義父義母が昭和16年、東京世田谷へ移住。子供の進学のため。 「戦時中の満州はわりあいのんびりしていました」 ・終戦後 ピストル強盗に遭う。以後、「長女**が、今でもこだわり続けているには、男に対する不信感のようです」⇒これは長女**への母++の見方ですが、むしろ母自身の見方を反映していると見なす方が妥当ではないか。
4.3 手紙における夫婦関係の「危機」
・両家の対立:1932年8月12日付け・主人との性格の不一致:1943年2月5日付け「女故に男のする事に口出し出来ないという規則は封建時代にもなかった」
4.4 手紙内容の社会的次元
・パーソナル・モード(個人):1943年6月25日付け 「子供のために、その言葉も私の心をひきもどすには弱いやうです。生みの子に愛情を感じないと云ふのはどういふわけでせうか」 ・パーソナル・モード(家族):1940年○月○日、1943年11月23日付け
・コミュニティ・モード:1934年11月26日付け、1936年2月20日付け ・制度的モード:1932年9月18日付け

5 母としてよりも個として
・夫の死を知らされて、小学校教師に 「子供四人かかえて、給料は食べるだけでせい一ぱいの私が、お茶だ、謡だと遊んでいるのは、ほんとうに大それたことだったのです」(『鳩のつぶやき』p.23) ・その決心をつけてくれたのが、母の一言「何か稽古事をするがいい」。夕食の支度は長女に任せて月二回の謡の稽古に通う。子どもたちは「母さんは義務で子供を育てている」と言う。「私は母としての勤めをあまりしていません」と述懐しつつも「それでも子供はすくすく育ちました。私は別に後ろめたく思っていません」(『鳩のつぶやき』p.23-4)と続ける。 ・この強さは満州時代から見られたものだ。「打たれてもけられても、さうされればされる程、意地になってにげたりさけんだりしないので、それが又気にいらないらしい」(1943.2.5) 和歌「甘えるを知らぬ女と罵られ/枕ぬらす夜夫の手遠し」 ・義父から「親に心配かけ、子をぎせいにしてもお前は自我を通さうとするかとしかられました。……女て結極、つまらぬものですね。さうされてもとび出しきらないのですから」(1943.2.5) ・「涙も出さずに唯一人で満州までついて来て、淋しがりもしないと言うことは、自分でも人間らしい感情はあったのだろうか、とあとになって思うのでした」(『鳩のつぶやき』p.10)と書く。

6 再び本資料におけるテーマについて
6.1 手紙と自伝(冊子)との対比 ・感情の揺れ幅は圧倒的に手紙が大きいなど、二つの資料のズレに注目することで解釈の幅が広がる。 ・手紙:現在、相手との関係(母-娘)、時系列的変化 ・自伝:過去、自己完結、一貫性
6.2 福田++の世界から、どのような戦中戦後が描けるか ・個としての女の生き方:中流家庭の女性の生き方→職業婦人、謡会や仕舞、満州での夫や舅姑との確執、戦後の教師として、「職員室の空気には何か馴染めないものがありました」。→「格安の職場女郎を侍らしてエビス顔なる人も人なる」 ・良き理解者としての母、母娘関係:満州での文通、感情表現の吐露、一方で八條家を出た「嫁」として距離をおく。
6.3 父の抑留中の死へ着目する意味、母への評価  ・娘(**さん)にとって、父のシベリヤ抑留死の記録保存の意味とはなにか。 ・当時の娘から見て、当時の「子育てを義務としてしか考えない母」への評価は?⇒あらためて遠藤++さんへのインタビューが必要であることを確認。