●経験的語りの調査研究および収集・保存をする機関です

研究例会 2015年度

目次

「統合失調症の娘を抱える、ある両親の羅生門的現実」
合評会:三代純平(編)『日本語教育学としてのライフストーリー―語りを聞き、書くということ―』(くろしお出版)合評会
スタッズ・ターケル(1912-2008)の作品の意義について
合評会:『ライフストーリーに何ができるか 対話的構築主義の批判的継承』
デスマーチの社会学――ソフトウェア開発現場はなぜ死の行進と化すのか
ニューカマーの子どもの学習継続要因:日系南米人高校卒業者の語りより
生殖補助医療後の出生前診断の経験についてのインタビュー調査
マンガ経験とナラティブ・アイデンティティ
4相の連続関係としてのカリキュラム概念–コア・カリキュラムと三層論をめぐる元教師インタビューを手がかりに
合評会:青山陽子著『病いの共同体――ハンセン病療養所における患者文化の生成と変容』
海外生活が駐在員の配偶者の家族観に与える影響―4人の女性の語りから―

「統合失調症の娘を抱える、ある両親の羅生門的現実」 青木秀光

当日の研究会の内容を報告します。
下記の報告は、報告者青木さんによるまとめを、サイト掲載用に運営委員が小見出しなどの若干の編集を行いました(当日の参加者の方でお気づきの点がありましたら、恐れ入りますがサイト運営委員の方までよろしくお願いいたします)。

■質疑の内容

●所属

A:報告者の所属している研究コミュニティの簡単な紹介を。
また、報告者が以前に受けたことのある草稿論文への批判、「主観的であること」と「おもしろくない」という点について具体的に説明してほしい。
青木:所属は立命館大学の先端総合学術研究科。
今はそこで博士後期課程の4回生休学中なので、来年度復学しても4回生ということになる。
立命館では社会学が学べる研究科が2つある。
社会学研究科と先端総合学術研究科。後者では、いわゆる歴史社会学を専門としている人が多い。
さらに障害当事者も多く、自身の所属している団体の膨大な資料などを有効活用したりしながら運動の歴史などをまとめている方もいる。
質的研究のなかでも聞き取りからのライフ・ストーリー研究や意味世界を探求するような研究は比較的マイナーな取り扱われ方をされるような印象がある。

●これまでの批判

「主観的であること」への批判としては、桜井厚のライフ・ストーリー論がそもそも主観的で科学的ではないという指摘を受けた。
また「おもしろくない」点についてはマイノリティのなかのマイノリティの話や、ジャーナリスティックな記述方法・内容等、比較的私の研究科が得意としているような研究と照らして「おもしろくない」という指摘だったのではないかと理解している。

●家族に二人の当事者

A:もう1点、この父親は統合失調症の娘とひきこもりの娘という2人の当事者を持っているとも読み取れるが、このような複数の障害当事者を抱えるケースというのは、体感的なものでもよいのだが多いのか。

青木:完全に遺伝するなどということは科学的には否定されているが、体感的には多いと思う。
例えば、家族会のなかでも娘さんが2人とも統合失調症であるケースや、片方の親が何かしらの精神疾患で子どもが統合失調症などというケースもある。

B:今の話で、そこにフォーカスをした論文を書こうとは思わないのか。

青木:統合失調症の次女とひきこもりの長女については、前者の方の話ばかりで後者については語りたがらない。
次女については、父親自身、多くの活動が家族会や次女のケアに充てられている現状があって、意識的にも次女に大きなウェイトを割いている状態。
だから、ずっと自分が従事してきた統合失調症について、まずは明らかにしていきたい。

B:同じような質問は、母親にもしているのか。

青木:はい。しかし、語りは出てこない状態。
ひきこもっているとはいえ、家庭内でのコミュニケーションは取れていて、軽微な外出ならできる状態ということ。
より手のかかる次女のほうに意識がむくのだと思う。

●トランスクリプション

C:トランスクリプトの「みな買うてしまうような感じ」で終わってますよね。
それに対して地の文で「格好悪」く、「早く連れて行」くために「みな買うてしまう」という文脈がよくわからない。
だから、格好悪いから早く連れて行かなくてはいけないと、お母さんの方では思ってしまうということか。
「買うてしまう」というのは、ずっといたら、色んなものを買ってしまうということか。
要するに、トランスクリプトを読んでいると報告者が今、口頭で言ってくれたらわかりやすいけれども、それでも一応関西弁だから、わかりにくというのが若干ある。仕草に関しても、それを記述する。あと句読点とかは、細かい話ですけどもしっかりと打つ。
それと、会話分析ではないので、本当に意味のない「あ、」とかをあえて入れなければならないほど忠実でなければいけない必要はないと思う。
文章がわかりにくくなるので、その言い間違いに意味があるのならわかるが、それは、ある程度考えて書くと良いと思う。
青木:例えばもう、ある程度、関西弁を標準語に直してしまうというのは、どうなのか。

C:話している人自身が「私ではない」って言うことを指摘されたら困ってしまうので、それはちょっと無理。
関西の出身の人でも、わかりにくいところがある。だから3~5行程度続いたら、そこで止めて下に解説を標準語で書くと良い。

●状況の説明について

B:「はじめに」の2行のところが混乱しました。もう少し書き直すと状況がわかりやすくなっていくと思う。大きな事件の方から扱って、その後実際の対象者であるお父さんとお母さんを出してくるっていう手法を使っているが、私の場合だったら逆に書くかなっていう気もしなくはない。

D:タイトル、統合失調症とまとめてしまって良いのか。私自身、双極性障害を持っている。そのなかで、私は軽いほうだが、統合失調症も恐らく同じように軽度と重度あると思う。ここに出てくる次女は、障害者手帳1級。そこをひっくるめて統合失調症と、まとめてしまうのは良いのか。

青木:例えば、重度の統合失調症とかに呼称を変えるべきという話なのか。

D:もう少し状況を説明するようなことを入れるべきかなとは思う。

●「羅生門的現実」

C:タイトルに関して、「羅生門的現実」という言い方を使っているのが、どの程度その意味合いがここに出ているのかを内容としては書かないといけない。
父親と母親の物の見方の違いっていうのはわかるが、「羅生門」って、ストーリーがあるわけなので、現実っていうのが単にあることの多様性、リアリティではなくて、本当にストーリーとして全然違う文脈のようなものがイメージされやすいので、その辺を単に多様性という言い方ではなくて、おさえておく必要があると感じる。
このタイトルを使ったことによって、「おもしろそうだ」って思わせてしまう効果はあるのだけれども、その点に関しては肩透かしになっている。「色々あるよね」っていう話になってしまう。

●現実の捉え方

D:もう1点。統合失調症ではなく、精神障害とかもっと大きな枠組みの方が良いのかと思う。もっと大きく見られるのかと思う。

E:私はちょっと、Dさんと違っていて、統合失調症っていうのは陽性症状が出るから、そこが1番他の疾患と違う。たぶん、ここのストーリーのなかに、陽性症状が出た時の親の対処とか混乱が、羅生門的現実だと思う。
だけど、そこが抜けてしまっている。そこは6年間のインタビューでは出ていると思うが、それを集積していったらこのストーリーはすごく面白くなると思う。語りの抽出の部分を改善してもらえれば、わかりやすい。

青木:書かなくてはいけない点を忘れていた。
陽性症状に関して、この娘さんの妄想だったり、統合失調症がゆえのっていうところで、先ほどの買い物の部分っていうのは特徴的で、この方の妄想っていうのは「お金が溢れるようにある」っていうもの。お金に執着がある。
普通であれば陽性症状から陰性症状に変遷するが、治療抵抗性とも言われて、ずっと陽性症状(妄想)が続いているのが、このケース。それを加筆修正しなければならない。

C:今のEさんの話と解説を聞いていると、統合失調症であることの捉え方っていうのは非常によくわかる。
むしろそれと、親たちの戸惑いみたいなものをうまくリンクさせてくれれば、確かに羅生門的っていう現実の面白さがリアルに出ていると思う。
むしろ積極的に、統合失調症であることのそれに対応する父親、母親の対応の違いを出すと面白い。

青木:後は、誰かがいるという妄想があって、その症状が公の場で表出したりするために母親は世間体を恥じる一方で、父親は迷惑が掛からない程度であるならば仕方がないという考えがある。
父親、母親は妄想の捉え方と接し方が違う。
母親は、娘と対立しがちになる。
しかし最近になってきて、父親も娘への対応に疲れがみえてきている。
現在、父は娘との接触を避けている。

E:例えば、家族の新興宗教への入信だとか、悪霊が見える妄想などを追い払う場面などとか読み手が知りたい部分が欠けているから「羅生門的な現実」を感じ取れないのだろう。
それらをもっと足すべき。

F:地域性を大事にしてほしいので、言葉は絶対に直してほしくない。
発症原因について興味があるのに、その説明や語りがない。
なおかつ理想的だが、例えば中野紀和さんの小倉祇園太鼓のように、夫婦で言っていることが相反しているという語りをずらっと集めて、その原因と、それに対する耐性、どこまで耐えられるのか、それが重なっていくと母親のようになって、冒頭にあるような、もう殺してしまうしかないような状況に追い込まれて社会的な病理としてあるという感じに持っていけるように思える。
完全に調査者と被調査者が没入してしまっている理想状態ではあるが、一度そこを離れて解説した方がよい。
自分の身内でも家族内での原因などで発症しているケースがあるので個人的に興味があり、なぜそれをさらっと流しているのか。

青木:それは、偏見を生むのではないかという思いがある。
統合失調症の原因が未だにわからず、歴史的には家族が病因とされてきた間違った見方がある。
原因を安易に想定することには私自身、抵抗がある。
ただ、両親が意味づける原因を科学的ではないが、描写は良いと思う。

F:何か中年になって突然発症している感じがある。
それ以前が気になる。
発症の兆候的なものを察知したような語りは、ないのか。

青木:端的にいって、「突然」という感じ。

F:色々なことは推測するけれどもわからないものは、わからないという点については分析すればよいと思う。

●統合失調症を論じる方向

G:統合失調症には4つぐらいの型があって、例えば破瓜型などの症状・診断名が付いていると思うが、その点は何になるのか。

青木:学派によって、破瓜型と付ける、付けないが存在して、両親自身も診断名などを詳しく把握していないと思う。

G:今やありふれた病気になったはずの統合失調症だけれども、世間と科学や当事者とのギャップがあるので、その点に触れてほしい。
最初に、精神疾患を抱えた子を親が殺害する事件に触れていて、そのような事件にならない希望としての今回の事例提示かと推測したが、話が進むにつれて、やはり暗い結末へと向かうのではという不安に襲われた。
家族や当事者が「生き生きと暮らす」と書いているが、一億総活躍社会ではないが、みんながみんな「生き生きと暮らす」べきなのかは疑問。

青木:実態を提示して終わりというふうにしたい。
結末として、こちらが解釈した後はあなたも考えてくださいというふうな終わらせ方にしたい。
社会福祉学系論文の型では、希望を語るのがベストであるが、それでよいのか悩んでいる。
最初の段階で、支援に触れているが、これが支援につながるのか、つながらないのかもわからないのが実際のところ。
何か解決策を書いて理想を語るのはよいのだろうけれども、どれも似たような結論になりがち。
例えば地域包括型支援(ACT)を導入するという結論。海外に学んでいこうという結論。

●家族会

H:地域家族会の会長である父親は、長期入院から地域へという流れのなかで、どのような貢献や考え方を持っているのか。

青木:個々が個々で考えていけばよいというのがある。
家族会の現状は伝統的な組織ではあるが、高齢化も進み、お茶のみ会程度のもの。
社会運動をしていこうというような希望の語りや提言が一部の社会福祉のなかで語られるが、8050問題というように80歳の親が50歳の当事者を抱えるような現状があり、とてもじゃないけれど社会運動をしていくような気力はないうえにそれでも「社会運動をしていこう」という掛け声は酷なもの。

H:実際に精神障害当事者に対して家族会が主にする支援はあるのか。

青木:特にない。昔は、当事者のために作業所を作るなどの運動があった。

B:若い親が存在しているなかで、家族会に新規参入しないのはなぜか。

青木:この地域で言えば、1つに官僚的な支配がある。
他のセルフ・ヘルプはどうなのかわからないが、先行研究のなかでも精神障害者家族会のこの手の話に触れるのはタブーである。
全家連(全国精神障害者家族会連合会)という組織もあったが、一部の家族と官僚の癒着などがあり潰れてしまったという経緯もある。
なので、若い人は若い人で集まっているとは思う。
全家連以後の2つの旧態依然とした全国規模の家族会組織が支部を持っている現状で加入率も低い。

⇒補足 そもそも精神障害という特質も関係がある。精神障害のなかで半分を占めるのは統合失調症であり、その発症は青年期頃になる(具体的には大学生ぐらいの年代)。親は第二の人生を迎える時期に子どもの発症と向き合うこととなるために、知的障害などの先天性障害と比べると随分と年が違うことになる。

●意味世界の探求と論述スタイル

J:意味世界を探求すると言っているが、報告者の立てた視点で分析した語りであるからFさん、Mさんの独自の意味世界がどのように作られて、そのなかからこのような視点が出てきたのかというのが見えない。全体的なものが見えない。
FさんとMさんと娘との独自のストーリーを必然性ある形で提示するべき。
もちろんそれは、報告者の解釈も込みで。一足飛びにどんな支援や政策があるというのでなく、ライフ・ストーリーにもっと入り込んで人の生きる姿から見つかるものがあるのではないか。

F:(レジュメ上の)線を引いたところの意味について、選別した理由も込みで、もっと詳しく語ってほしい。

J:論文の書き方で、今これは父と母が交互に出てきているが、父だけ母だけのライフ・ストーリーを出した後で、一番最後に考察として小見出しにあるようなものを抽出していく方がよい。今の書き方では、細切れでわかりにくい。
先にこの小見出し部分を聞くために調査したかのように思われる。
そうではなくデータに語らせるなら、後からこういうものが抽出されたという出し方のほうが説得的。

C:論文の書き方というなら、論文編集委員をしていたらかなりの書き直しを要求する。
内的世界の何を明らかにしたのか、要するに論文のテーマがわからない。
羅生門的現実という夫婦のストーリーの違いを焦点にしているのか。
「はじめに」の事例を読むと、踏みとどまっているFさんMさんがいて、次に世間が出てくるので。
ところが何かそれを踏みとどまらせるようなことがあり、話がまた横道にそれていくようなところがある。
家族会の話が出てきているが、家族がある社会とどのようにリンクしているのかがポイントとなるかと思ったが、どうもすんなりそうとも読み切れない。テーマが拡散していく。
はじめの事例はすごくインパクトがあるが、それがどのようにつながるかわかりにくい。
ライフ・ストーリーの面白さは出ているがそれを生かさなくていけない。報告者の解釈をもっとしっかり出していく必要がある。つながりをつけてほしい。それが知りたい。全体を構成し直してほしい。

●ライフストーリー論

D:ライフ・ストーリーを使用する時に科学的手法とどのように折り合いをつけているのか。

青木:再現可能性だとかは、無理だということを言っている。現にそれらをしている学者(桜井・蘭など)がいるということを言っている。開き直って超主観的だとも。

J:関連して、先行研究の批判的検討と言っているが、先行研究を批判して自分の事例を出してきてはいるが、最後の考察で、それらをどう評価するのかが書いていないので、どのように受け取ってよいのかわからない。この方法でやったことによって、先行研究では見えなかった何が見えたのかを明らかにしてほしい。

A:研究手法の選択理由について「聞き手が聞きたいことだけに限定して、話し手とのインタビューにのぞむとなると、相手はすんなりと自身のことを話してくれるだろうか。」というような問題意識について、相手が自分のことをすんなりと話してくれるということが、今回の手法選択理由でよいのか。
つまり話してくれないことも分析対象になりえること。
また、報告者自身の固有性をも含んで相互行為がどう成り立っているのか明らかにすべき。
もうひとつ関連して、トランスクリプトで「やっぱり」という言葉がインタビュイーから多く発せられているが、これは報告者だからこそ対象者が使用している言葉にもとれるのでは。「やっぱり」の前には、世間体ではない個別的な解釈を試みているような気がする。
それは聞き手のポジショナリティに関係しているのでは。
世間体を克服したいが、「やっぱり」世間体に戻されるという往復は何かしらのトライアルという点でも解釈できるし、これは軽く秘密を打ち明けられているとも理解できないだろうか。

青木:一番記憶に残っているのは、母親がすんなりとインタビューに応じてくれたこと。
家族会に抵抗があるという人が話してくれることを疑問に思った。
終わった後に「誰にも言えないことを話せてすっきりした。ありがとう。」と言われたこともある。
それについてはずっと不思議に思っていた。

K:母親にとったら報告者は、世間体の外部からやってきたために取り繕う必要がないための「やっぱり」。
わかってくれるという「やっぱり」ではないのか。

F:冒頭の目的に戻るが、ただの世間話ではなくして研究者として、何らかの解決を導こうとしているがために母親は報告者に真剣に向き合っているのではないか。

C:恐らくそれは世間と自分ということをよく表しているものなので、報告者がしっかりと解釈を入れていかなくてはいけない。
トランスクリプトにまかせてしまってはいけない。
語られていない部分を書かないといけない。
対話的構築主義が相互行為を強調しているのは単に長い付き合いをしたから語ってくれるということではなく、やりとりのなかで「私」に語ってくれるということ。
このようなポイントを書き込むことが相互行為、インタビューの聞き手としての「私」を出すということ。
だから付き合いが長いということは別の話。

K:「やっぱり」とは言い慣れていないことを言うこと。
ためらいながらの語りでもあるのでは。
「やっぱり」というからこうだということに重きを置くよりもFさん、Mさんとの報告者の付き合いのなかでそれを解釈できるのだろう。
それに先ほどの「話せてすっきりした。ありがとう」という語りも場面や空気がわかる。
語りを切り分けるよりも、生きたFさんMさんの世界を完結させるところをみてみたい。

B:前回、聞いたことと違うことを語る人がいるなかで自分が警察の尋問のように事実を確認してしまうことがあるのだが、それはやめたほうがよいのか。

C:やめたほうがよい。

B:博論では、前回と違うことを言う人で悩んだ。

C:そのこと自体(なぜ前回と違うことを言うのか)を分析することも興味深い。
ふたつのヴァージョンがあるなかで、どのように解釈するか。
事実関係はどうなっているかということでの確認はできるが、意味付けはそうではない。

●希望の物語

D:自分自身が障害当事者として、20年後、30年後の両親はこのFさんMさんのようではないかとも思えると、他人事ではない。このFさんやMさんは、なんらかの希望を持っているのか。

青木:実際に「希望がある」と言っていた。
実際にFさんに論文を見せたときに「俺は(次女の治ることについて)諦めていない」と話していた。
次女の回復見込みについては、脳への電気ショックや北欧での薬剤を使用しない治療方法であるオープンダイアローグがあるということを言っていた。
また、父親は株をして儲けようとしているので、お金を稼ごうとしているのは将来へ向かって生きていくという見込みを持った行動なので希望だともとれる。
母親に関しては、趣味のカラオケとゲートボールの楽しみが希望として挙げられる。
さらになんらかの形で文章化したいと思ったのが、報告者の自己変容に関してだが、オーバーラポールと批判されるのではないかと気にしている部分がある。

C:あまり気にしないこと。そういうことを捨てたから今研究しているのでは。

青木:よくFさんと電気屋に行ったり、車屋に行ったりすると、子どもとその父親みたいにみられるのがうれしい。
例えば店の人が「息子さん?」とFさんに聞いた時に「まぁ、そんなもんよ」と答える場合や、Fさんが「違うよ」と応答した時でも、店の人が「じゃあ娘さんの(夫)?」と続けてFさんに言って「だったらいいんだけどね。」みたいなやりとりが心に響く。

D:個人的な希望で、少しでも明るい話が聞きたいというのはある。

青木:もうひとつの違う母親の事例があり、そちらは希望の物語として用意はしている。
母親もその障害当事者の息子も高齢であり、障害も一見、重度で変化がないように思えたが長年の付き合いのなかで親亡き後に備えてのショートステイの練習が身についてきて、今では1週間のうち5日はひとりで生活ができるようになっている。
L:障害者の家族の研究では、家族を簡単に悪者にできる。
そのなかでも家族を簡単に切り捨てるなという言説が少しある。
ここで挙げられている先行研究では支援につながるような機能論的なものになっていて色々なものが切り捨てられてしまう。
例えば先ほどの母親の趣味の楽しみなどの話しが出てくるだけでも読み方として変わってくるのでは。
希望が持てるかはわからないが、すごく切り取られた事例ではなく個人として捉えられるだけでも随分と変わるのでは。
それがライフ・ストーリーにできることと言えるのかもしれない。

●まとめ(当座の見立て)

多くの貴重な意見は、どれも考えさせられるものであった。
まずは基本事項としてトランスクリプトの見やすさと全体的な構成の練り直し(父・母の交互表記を変更)をしたい。
コメントに出たように統合失調症の症状に対しての父親と母親の対応の差異に焦点化するのがよいだろうと考える。
筆者にとっては「当たり前」となってしまっていた統合失調症という精神疾患が引き起こす症状への対応をみることで、そこに父親と母親の羅生門的な現実が表出するのではないか。

その時に肝要なこととして報告者の解釈を多分に盛り込むことや、報告者であるからこそ成り立っている相互行為という面に着目することで対話的構築主義と呼べるものになるだろう。
先行研究の検討においては、支援を構築するための論文が見落としてしまうことに焦点化する。
それらは①個別性、②関係性の2つである。
前者においては、生活者としての家族を詳細に捉えきれていないこと。
後者においては、家族も支援者も一人の生活者であるからこそ持つ多様なバックグラウンドにおいて、いかに関係を取り結んでいくのかにつき言及されていない点が挙げられる。
それらには、1つに、距離をとった支援対象としての家族の捉え方があろう。
つまり主体―主体の問題としては捉えきれない限界が先行研究にはある。
以上を主眼としての本研究の位置づけを明確にしたうえで当該テーマに焦点化して再構成していくことができるのではないだろうか。

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三代純平 『日本語教育学としてのライフストーリー―語りを聞き、書くということ―』(くろしお出版)合評会

評者1:太田裕子さん(早稲田大学)
評者2:松尾慎さん(東京女子大学)
司会:西尾広美さん(国立国語研究所)

(以下、著者の三代純平さんによる記録です)

Ⅰ 評論

太田裕子さんの報告—共通テーマをめぐって

 

1.ライフストーリーは語り手と聞き手によって共構築される
◆論点1:語り手が語ったライフストーリーは、聞き手その人だからこそ構築されたストーリー。
だとすれば、語りを規定した要素を、読者は知りたい。
では、どこまで、どのように、その要素を聞き手(研究者)は示せるのか。示すべきなのか。
◆論点2:ライフストーリーを資料(河路)/リソース(三代)として公開する意義と倫理的課題

2.聞き手である調査者の「構え」と「自己言及」の関係
◆論点3:ライフストーリーが語り手と聞き手によって共構築されたものだとすれば、聞き手である調査者が自身の「構え」を自覚し、吟味し、明示することは重要である。
では、聞き手である調査者は、自身の「構え」を、いつ、どのように自覚し、吟味するのか。
◆論点4:自らの「構え」を自覚し、自分とは異なる経験を持つ語り手のライフストーリーを理解できるかどうかは、「自己言及」そのものではなく、調査者の力量と経験によるところが大きいのではないか。
◆論点5:「構え」を自覚し、吟味し、明示するための方法は、「自己言及」的記述に限らないのではないか。

3.ライフストーリーの先にある「日本語教育学的語り」
―「あなたはライフストーリーによって何を語るのか」という問いにどう答えるか
(1)ライフストーリーに基づく日本語教育への問い直しと実践への示唆
◆論点6:「日本語教育実践」の範囲はどこまでか。

(2)ライフストーリーに基づく新たな日本語教育の実践の意義と可能性の提示から、自身の日本語教育実践を通したその実現へ
◆論点7:ライフストーリー研究に基づいて得た新たな実践の意義と可能性を、自身の現場で実践していくことは、日本語教師・日本語教育研究者のライフワークではないか。

(3)ライフストーリーの共構築そのものを、学びの場と捉える
①ライフストーリー・インタビュー自体を学びの場と捉える

②ライフストーリーを日本語教育実践に取り入れる
◆論点8:ライフストーリーを語り手と聞き手が共構築するプロセスから、日本語教育実践のあり方に示唆する点も大きいのではないか。
◆論点9:日本語教育実践は、過去の経験についての意味づけを促すだけでよいのか。新たな経験を生み出す場を作ることも、同時に必要ではないか。
◆論点10:ライフストーリーを日本語教育実践として利用する場合、何に留意すべきか。「ライフストーリー研究」と、日本語教育実践におけるライフストーリーの共通点と違いは何か。

 

松尾慎さんの報告:日本語教育におけるライフストーリー研究成果を広く世に問う可能性

 

1.ライフストーリー研究成果を一般学術誌に投稿する場合の課題
①「実証性」
a) 『日本語教育』 研究論文:日本語教育および関連領域について,先行研究に加えるべきオリジナリティーのある研究成果が,具体的なデータを用いて明確に述べられているもの。研究課題が明確に設定されており,データの分析を通して課題への解答が示されていることが必要です。今後の日本語教育の活動に資する発見や提言などが,教育実践の結果に基づき実践研究としてまとめられた論文もここに含まれます。研究論文では,オリジナリティー,実証性,論理性を特に重視して査読が行われます。研究成果におけるオリジナリティーの有無は,関連する先行研究の内容が十分に把握され,かつ,その研究領域での当該研究の位置づけが明確に示されているかどうかによって判断されます。
b)『社会言語科学』
研究論文 ?- 独創性のある実証的または理論的な論文
ショートノート ?- 萌芽的な問題の指摘,新事実の発見や興味深い観察及び少数事例に関する報告,研究装置や研究方法に関する指摘・提案など

②字数・紙幅の問題
『日本語教育』研究論文・・・39字×38行 14ページ(21840字)
『日本語教育』研究ノート・・・7ページ
『異文化間教育』研究論文・・・40字?40行 10ページ(16000字)
『社会言語科学』研究論文・・・46字?40行 16ページ(29440字)、ショートノート 8ページ
『早稲田日本語教育学』研究論文・展望論文・・・40字?39行 20ページ(31200字)
『言語文化教育研究』・・・40字?30行 30ページ(36000字)
『日本オーラル・ヒストリー研究』・・・論文18000字~28000字の範囲

2.本書に掲載された論文を査読的視点で読んでみる
論文1 「グローバル人材」になるということ ―モデル・ストーリーを内面化することのジレンマ 三代純平
● 分析、考察対象の妥当性
● Aさんの就職活動-「グローバル人材」になるということ

論文2 複数言語環境で成長する子どものことばの学びとは何か -ライフストーリーに立ち現われた「まなざし」に注目して 中野千野
● 研究の意義や目的に関し
● 調査協力者に関し
● 「まなざし」とインタビューの関係
● 「語りがたさ」(p203)
● データの解釈に関し(p205)
●5.3 日本語教育におけるライフストーリー研究の意義

論文3 語り手の「声」と教育実践を媒介する私の応答責任 ―日本語教育の実践者がライフストーリーを研究することの意味  佐藤正則
●研究の主体(p221)
● 「放浪者」に関し(p242)

論文4 日本語教育に貢献する教師のライフストーリー研究とは  飯野令子
● 経験の新たな意味生成に関し(p270)
● 日本語教育に貢献するライフストーリー研究とは(p272)

論文5 日本語教育学としてのライフストーリー研究における自己言及の意味 ―在韓「在日コリアン」教師の語りを理解するプロセスを通じて  田中里奈
● 「在日コリアン」とは
● 「構え」や「期待」と自己言及の関係
● (査読コメントではなく、コメント)「1.はじめに」

 

Ⅱ ディスカッション

松尾さんによる各論文へのコメントに対し、例会に参加していた各執筆者がコメントを返した。
次に、太田さんのレジュメをもとに、全体的なディスカッションへと移行した。

1.松尾コメントに対する執筆者のコメント
【三代】
・なぜAをとりあげたかについて、明確に書いてはいなかった。
書く過程で、分量の都合などで、一人に絞り込まれ、記述が落ちてしまった。
・どの時期のインタビューを行うかで、語りが変わるのではないかという点について。
就活直後のAの語りは、日本の就職活動で身につけたディスコースの影響を強く受ける。
そして、働いている最中は、企業が求めるグローバル人材のイメージを反映する、そのようなモデル・ストーリーと語りの関係を見ることで、「グローバル人材」の内実に迫れると思われる。
そのようなこころみとして書いたつもりだが、説明が不足していたかもしれない。

【中野】
・「まなざし」と「構え」について。
「構え」は静的なもの、「まなざし」はより動的なものと考える。
調査者が持ち込む「構え」に焦点を当てるだけでは見えてこないものが、相互の「まなざし」を見ることで見えてくる。
調査者のみではなく、調査者をまなざす調査協力者のまなざしも重要になる。

桜井:「構え」というのは、調査のプロセスで変わって行くもので、静的ではない。
フィールドに入る前の「構え」とフィールドで経験するなかで作られる「構え」は同じではない。
そういう意味では、動的と言えるのではないか。

【佐藤】
『放浪者』という捉え方について。
個人的には、2000年代前半の中国人留学の状況は『放浪者』という概念で捉えることができると考えている。
そして、近年の、ベトナム・ネパールの留学生の状況は、当時に重なる。現場にいると、またか、と思う。

【飯野】
実践を教室に限定している点について。
欧州における教員養成に関わってきたので、たしかに、教室を想定していた。

松尾:そのような立場を否定はしないが、自分は、もっと広く実践を捉えたい。
かき工場のドキュメンタリーを見てきたが、それも日本語教育実践だと自分は思う。
飯野:教室の外も、広く、日本語教育実践とするということか。
松尾:そうではなく、それこそが、日本語教育実践だと自分は思っている。
論文では、調査対象者の学びや教育観の変化を重視しているが、飯野さんの教育観や実践に対する考えの変化はないのか。
太田:論集において、他の章では、自己言及に傾きすぎているきらいがあるが、飯野さんの原稿では、もう少し飯野さん自身の変化なども書かれてもよかったのではないか。

2.全体ディスカッション
【LS研究と実践】
三代:この論集を編集したとき、日本語教育学のLSを考える上で、教育実践との関係が重要になると考えていた。
それをある程度、示せるかと思ったが、編集してみるとそこまではいけなかった。
佐藤さんは「応答責任」という言葉で、研究が自己の実践に反映されていくべきだと主張しているが、それも一つの実践とLS研究の関係だと思う。
太田さんも指摘しているが、そこまで、一対一対応で考える必要はない。
また、前に、教室実践と外の実践の話が出ていたが、松尾さん自身は、教室実践自体を外に開いていく実践をされていて、それがおもしろいと思う。
そういう意味では、教室の内外の議論も、実践の可能性を狭めている。
もう少し、有機的、かつ、丁寧に、LS研究と実践の関係を考えていきたいと思う。
佐藤:自分自身は、そこまで一対一のように考えて「応答責任」とは言っていない。
「応答責任」は、責任と言うが、応答せざるをえない、とも言える。
語りをきいた自分は、聞く前の自分とは違い、そのことは、否が応でも、自分の実践に影響を与えている。

【まなざし】
中野:「応答責任」の話は、「まなざし」につながる。相互のまなざしを捉えることが実践につなげる上で重要。

桜井:さきほどは、「まなざし」と「構え」はそんなに違わないと言ったが、やはり、違う。
(LS研究の世界観の基盤となる)シュッツの現象学では、見る-見られるという相互行為、共同主観から世界を捉える。
そういう意味で「まなざし」に近い。
ただし、「構え」は、調査方法における概念として提案している。
調査主体とは何だ、という問いがある。
その背景には、それまで、調査者の「構え」がインタビューに与える影響に、インタビュー研究が無頓着だったということがある。
「まなざし」として言われているような世界観から研究を考えるための概念としての「構え」だった。
その意味で、そこに戻っていくようで面白い。

【客観性】
参加者A:論集では、自己言及的な記述が強調されている。
しかし、LSを相互行為の中で構築されたものとして見たうえで、それを分析するのは客観的である必要があるのではないか。
そうでないと、松尾さんの指摘にあったように、査読者や教授を説得できない。
研究として認められない。自分は、LSが研究として認められるようにしたい。
三代:日本語教育に関していえば、研究者は、同時に教師でもあることが多い。
その意味で、教師である研究者の経験を描く方が、現場に還元されるものが大きいと思われる。
それがすべてとは思わないが、「リソース」として研究を共有し、一つの実践共同体としての日本語教育コミュニティを形成することに寄与するためには、自己言及的な記述は、大きな意味をもつアプローチだと思う。
桜井:自己言及的記述は、必ずしも必要ではない。
対話的構築主義と言ったが、そこでもっとも重要なのは、相互行為をみるということ。
協働的な客観性?を担保するためだった。
参加者B:イギリスに留学していたが、向こうでは、質的研究は、随分前から当たり前で、客観性などとは言われない。
そもそも質的研究は、客観性を否定したところから入ったのではないか。
参加者A:自分の専門は、医療系だが、それでは、客観主義の教授たちを説得できない。
参加者B:それならば、量的な研究と質的な研究を補完的に用いる研究法をとればどうか。
そのような研究法の書籍も出ているので、参考になるはず。
桜井:従来もそのような手法はあった。
しかし、質的研究が量的研究の補助的なものとして扱われることが多い。
固有なことばの意味や時代との関係性を丁寧に解釈することが質的研究の特徴と言える。

【ライフストーリーとナラティブ】
参加者B:ライフストーリー研究は海外でもあるのか。検索しても見つからない。
桜井:あるにはある。ただ検索すると、口述の自伝のようなものがおおくひっかかる。
参加者C:イギリスの大学院で、ナラティブを研究していた。
そこでは、ライフストーリーは、データのことで、分析方法は、ナラティブだった。
桜井:ライフストーリーを分析する視点の一つとして、ナラティブはある。
ライフストーリーはライフヒストリーから出発している。
ライフヒストリーは日記なども分析するが、そこで、経験の語りの注目したものが、ライフストーリー。
いくつか、ライフストーリーと言っていた文献が英語にもあったが、確かに最近は、ナラティブということばの方が優勢かもしれない。
参加者C:イギリスでは、ライフストーリーは、データなので、ライフストーリーを量的な手法で研究するという研究もある。
桜井:ここ(LS研究会)でのライフストーリーは、あくまでデータをインタラクションとしてみる。
LSが、インタラクティブに構築されるというのは、世界の共有認識としてあると思う。

【LSの展開】
太田:研究方法としてのLSを研究することが主に議論されているが、同時に、LS研究を方法、目的、ツールとしてのみとらえないことも重要ではないか。
今後は、LSを実践方法として捉えることも視野に入れることで、LS研究の可能性も広がると思う。

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スタッズ・ターケル(1912-2008)の作品の意義について

栗木千恵子

(以下、報告者 栗木さんによるまとめです)

今回の発表はアメリカ合衆国のジャーナリストでオーラルヒストリアンとしても名高いスタッズ・ターケル氏の作品を取り上げ、その意義を主としてオーラル・ヒストリー及びジ ャーナリズムの観点から論考することを目的としたものです。またインタビューの名手としても名高い彼の手法についても報告しました。以下、事実関係の補足に続き議論のまとめを記載します。

今回取り上げたターケルの作品初版出版年とタイトル

Hard Times: An Oral History of the Great Depression (1970) ISBN0-394-42774-2『大恐慌!』作品社 2010年
Working: People Talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do (1974). ISBN 0394478843
『仕事!』 晶文社 1983年
American Dreams: Lost and Found (1983)アメリカン・ドリーム 白水社 1990年
The Good War (1984) ISBN 0-394-53103-5 1985年度ピュリッツアー賞受賞『「よい戦争」』晶文社 1985年
Chicago (1986) ISBN 5-551-54568-7
Race: What Blacks and Whites Think and Feel About the American Obsession (1992). ISBN 978-1-56584-000-3『人種問題!』晶文社 1995年

質問への補足:この本の序文にある黒人少年エメット・ティル少年(惨殺当時14歳)の事件は1954年にミシシッピ州の小さな町モーニィーで起き、公民権運動に大きな影響を与えた。白人男性二人は無罪となったが、のちに有罪が確定したことを付記します。

ターケルのインタビューの手法と作品化

議論は多岐に及んだが、①ターケルのインタビューの手法と作品化 ②ターケルがインタビューの目的として挙げた「現実」「事実」と「真実」について ③客観と主観について絞り込んで報告したい。まず①について、「飽和」との兼ね合いで、何人のインタビューが必要か、1回のインタビューの時間などの質問があった。
必要な人数などは書き手やテーマによって変わってくるが、自分の場合は、まとまった作品(単行本)では百名以上をインタビューした。当初から百名を目指したのではなく心底から納得するには最低でも百名のインタビューが必要であったということでご理解願いたい。
インタビューの時間については相手の都合もあり、1回で終わらなければ再度のインタビューが必要な場合もある。答えにならないかもしれないが、ケースバイケースで柔軟性が求められる。そのためにも早い段階で信頼関係を構築することが大切と考える。
最初のインタビューから時間が経っての場合はかなりの時間(年数)を経て初めて到達する境地ともいうべき対象者の心境を感じる。言葉遊びのようだが、年月には体験を熟成させ体験者を成熟させる力があるのではと考える。
その最適な事例はターケルの『人種問題!』プロローグに掲載されている前述のティル少年の母親の発言である。

作品化について、平均60頁のトランスクリプトを6ページに縮め、それをまた書き直すというターケルの手法を紹介したところ、編集と主観の関についての質問があった。客観及び主観は抽象的な概念であり、議論するには言葉の定義の確認を十分する必要があるが、新聞記事やノンフィクションの場合であるが、自分は編集の段階では主観という概念は念頭になく、テーマや全体の構成
に沿って、取捨選択をするが、その際最も重視している基準は事実を正確に伝えているか、である。
以上は自分の場合であり、ジャーナリストであったターケルも同様で、インタビューの目的は現実(real reality)を掴む、その上で事実を丹念に積み重ねることで思い込みやラべリング(レッテル貼り)都市伝説を暴き、剥がす事ができると語っていたことから間違いないと考える。

今回は時間の制約で言及できなかったが、アメリカのジャーナリズムの主観を極力排する客観主義(事実のみを書け)は大変厳しく、些細なミスでも首が飛ぶほどである。しかしターケルの採った手法(発言者の発言を掲載)は極力主観を排し、事実を伝える最適な形式であると考える。
編集者から持ち込まれた企画を選ぶ基準については、ターケルは自分がピンとこない企画にはイエスと言わなかったと考えられる。彼の基準は彼が残した作品と彼がシカゴで語った「普通の人々の普通でないとてつもないストーリーに非常に感銘を受ける。誰でも詩人である」がヒントになると考える。
もしターケルがインタビューして作品に収録されなければ、ある意味存在しなかったことになってしまう事実や人々の体験をターケルは丹念に掬い取り、もしかしたら本人以上に見事に言語化した。オーラル・ヒストリーとしての価値はもちろんのこと人間性についても読者に多くのことを伝えてくれる示唆に富んだ内容で、ターケルの作品の意義はこの点にあると考える。

ターケルのインタビューの目的は、事実の解明とそれを伝えることであり、前述したとおり「事実」を丹念に積み重ねることで「現実」が判明し、ステレオタイプやラベリング(レッテル貼り)、神話や都市伝説などを暴くことができることをターケルは立証した。
「真実」については、ターケルの言葉を借りて、「相手の内面に踏み込んで」こそ得られるものではないか、と自分は解釈している。著者が顔を出さないのはフェアではないという意見もあるが、作品中には極力顔を出さないようにしているターケルは、完璧な客観性は理念の産物であり書き手が顔を出さない方がより客観的に事実を伝えることができると考えていた節がある。だがターケルは長文の序文で自身の思いを綴っていて、序文には彼の発見した「真実」が込められているように感じている。

最後に再びターケルの作品の意義についてであるが、Hard Times(大恐慌!)というオーラル・ヒストリー作品も刊行当初は(一般化がなされていない)と歴史家たちから批判を浴びたが、この作品でターケルは一般化を目的とせず人々の記憶を書いたと序文の冒頭に書いている。
自分は大恐慌を生き延びた人々たち(体験者たち)の証言からしか伝えきれないものがあるのではないかと考える。作品化により多くの読者が大恐慌が当時の個々人に与えた影響について知ることとなり、たしかに「辛い時代」に共通する体験は本書の随所に見られるが、ターケルの作品はこうした体験の一般化を目指したのではなく、個別の体験を数多く収録することで全体像を描こうとしたと考えている。

そしてこの彼の手法はアメリカのジャーナリズムの伝統に則り、判断を読者に委ねたのではないかと考えるものである。時間の制約で言及できなかったがその根拠はターケルは抽象化されれば現実から離れてしまうとシカゴで何度も語っていた。
彼のこの作品 には、オーラル・ヒストリーを伝統的な歴史学という領域だけに閉じ込めず、作品化によりその領域を乗り越えた(押し広げた)という意義があると考える。
また一般読者に入手しやすい単行本として刊行されたことで、辛い時代(大恐慌の原題)についての理解が広まったのではないかと考える。

アメリカ合衆国のオーラル・ヒストリー、ライフストーリー研究の特徴はオーラル・ヒストリーを政策の過程を解明するエリート・オーラルと個人に力点を置くパーソナル・オーラル(個人史)とに大別した点であり(コロンビア・メソッド)、後者とライフストーリーとは共通する点が多いと考える。最近では後者の比重が高まっている。
アメリカのジャーナリズムは客観性を追求するあまり、それだけでは伝えきれないものがあるということに、ジャーナリストでもあったターケルの作品と手法はジャーナリズムに少なからぬ影響を与えたのではないかと考える。
もともと実証主義的であったアメリカ のジャーナリズムは、取材対象の生の言葉(ダイレクト・クオート)を記事 に盛り込む場合が多い。時には見出しにもなる。その最も知られた例は「嘘だと言ってよ、ジョー」法に触れたアメリカのプロ野球選手に少年ファンが直接叫んだとされることばである。
ターケルの作品はインタビュー集であり、すべてがダイレクト・クオートで成立していると言っても過言ではない。その意味で
ジャーナリズムとオーラル・ヒスト リーをつなぐ意義を果たしたと考えられる。ターケル以降ジャーナリストがオーラル・ヒストリー作品を相次いで出版したこともターケルの作品がその素地を形成するのにある役割を果たしたのではないかと考えるものである。

客観性重視に反旗を翻したニュー・ジャーナリズムは「まるで見てきたように書く」と伝統的なジャーナリスト達から批判を浴びたが、やがて一つの流派として確立された。「語り」を重視するターケルの手法は、最近当事者の「語り」を積極的に取り入れるナラティブ・ジャーナリズムの手法の先駆けと位置付けられると考えている。
この手法は最近ではハーバード大学に研究部会が設立された。「語り」はオーラル・ ヒストリーに不可欠であり、この意味でもターケルの作品の果たした意義(オーラル・ヒストリー、ライフストーリーとジャーナリズムの接続)は決して小さくないと考えるものである。

最後にアカデミックな学者・研究者とジャーナリスト、両者の領域は異なるものの、アプローチや基本的な考え方などは相違より共通するものの方が大きいという認識を共有できたのではないかと考えます。

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合評会:『ライフストーリーに何ができるか 対話的構築主義の批判的継承』

『ライフストーリーに何ができるか 対話的構築主義の批判的継承』桜井厚・石川良子編、新曜社、2015

今回は、木村豊さん、湯川やよいさんのお二人にお願いして、本の批評してもらいました。
まず、それぞれの批評のあとで評者に若干の質問をし、批評の内容を中心に参加者とともに討議をおこないました。
以下では、参加者とともに行われた討議内容のいくつかをメモ風にとりあげています。

【討論内容】

●調査者のポジショニング
参加者A:桜井さんはこれまでの実証主義/解釈的客観主義を前提にしたディスコミュニケーションを問題にしたのに対し、『ライフストーリーに何ができるか?』の著者たちは、調査協力者と調査者とのディスコミュニケーションを問題にしているように見えるがどうか。
桜井:かつては方法論的問題だったが、今のライフストーリー研究が一定程度認められてきた現状がある。
また調査協力者と調査者の関係については「構え」の概念を含め、常に分析に調査者を含む反省的記述を求められることは変わらない。

参加者A:(「ひきこもり」テーマの論文について)「ひきこもり」は当時のどのくらいのリアリティがあったのか?
参加者B:ちょっと早かったのかも。用語は既にあって、専門家の定義は あったが当事者の経験については、あまり研究が進んでいない時期。いろんな経験をしているのに、当事者が当時の「ひきこもり」概念で語ることに関心があっ た。

参加者A:インタビューを受ける側のインタビューイメージに規定されていくことのおもしろさがあるけど、インタビューの構えは調査協力者と調査者の「構え」は一致してるのか?
参加者C:調査協力者のほとんどは同じように構えで、困ったことを聞きたがったが、今回の(調査協力者の)Xさんは困っていないという語り方がおもしろかった。

●メソドロジー
桜井:木村さんの批評の問いにあるのは、社会調査法としてライフストーリー研究法は自立しているのか。
参加者D:*4どのレベルか、理念からの標準化なのかテクニカル的 な方法としてか。
桜井:調査者を分析の枠組みに組み込むところが従来とちがう。調査者がどういうふうに変化していくのかも記述の対象になる。
参加者A:インタビューをする側が自分を記述することを意識したときに、インタビューの仕方がかわってくるのか。
参加者B:対話的構築主義を意識するとインタビューができなくなる(笑)。
桜井:これまで中野卓さんの作品についても職人芸として片づけられたところがあったけれど、その芸を透明化、標準化していく作業と絡んでいる。おもしろかったのは、授業で本書を読んだ大学院生が指摘した内容が、執筆者の個性そのものを表していたこと。
参加者B:書き手の個性なしではライフストーリー研究にならないような気もする。
参加者D:桜井論の原点において、「調査者を俎上に載せる」という企図と「手続きの透明化」の2点が、重要であることは理解する。ただ、それらの意図を具体化する際、ストーリー領域と物語領域に分けるなど、それらの提案はどこまで固定化しうるものなのか。「批判的継承者」の立ち位置からは、もう少しそれ自体を相対化するところがあってよかったのではないか。具体的技法として桜井論の主張されているところ、たとえばトランスクリプトの中で「はい」「いいえ」といった短いやりとりよりもチャンクの大きい箇所に意味があるという場合、それをその通りで形式的に受け取るのではなく、むしろそれ自体を検討すべき、相対化すべきではないか。継承者の人たちも必ずしも桜井論の通りに実践していないように見えるが、どのあたりを踏襲していないのかを明確にすべきではないか。
また、「調査者を俎上にあげる」ための具体的やり方は、必ずしもインタビュー場面の「相互行為」記述だけではないはず。「調査者を俎上にあげる」際の独自の目的や力点が対話的構築主義にはあるように思える。それが何なのかを明示しなければ、EM(エスノメソドロジー)などからの批判に応答したことにはならないのではないか。

●当事者研究
参加者F:当事者研究として、対話的構築主義にとっては、同じ経験をしている当事者にしかわからないのか。
参加者C:当事者でもわからないことはわからないことがあるので、ぼくは狭い意味(同じ当事者同士)での当事者研究ではなく、当事者が研究しているということ。木村さんの批評で指摘する調査したものにしかわからない印象については、わかるようにする研究が必要。

●批判的研究
参加者E:対話的構築主義のレゾンデートルはなにか。なんで他者の話を聞こうとするのか、人の人生の話をわざわざ聞くのは、なぜ?にこだわっていて、なんのためというところ、なにを継承していくのかというところで、ライフということにカギがあるのでは?
参加者D:構築主義を厳格に志向するプロジェクトは、専門研究としてのリサーチアビリティに重点を置いたけれど、対話的構築主義のライフストーリー研究は、あくまで批判的研究であるというところに力点があるのではないか。
つまり、一部の批判的な研究には、解釈が定型化しやすい(予定調和に陥りやすい)という課題があった。対話的構築主義は、定型化による予定調和という陥穽を自己点検しつつ解釈を細やかにしていこうという志向として理解している。
マイノリティ研究とかならず結びつくとは必ずしも思わないけれど、批判的なプロジェクトではあると思う。調査者を俎上にあげるけれど、それは「批判的なプロジェクトである」ことに結びつくわけで、そのための方法論であることを具体的に明確にしてほしかった。
本書の執筆者に共通しているのは、批判的であることを方法論の軸にしているところがある。そのためのバリエーション、分析軸の明確化が必要。
(文責:桜井厚)

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デスマーチの社会学――ソフトウェア開発現場はなぜ死の行進と化すのか

宮地弘子

<質疑応答まとめ>
▼事実確認

【Q1】「デスマーチ」で燃え尽きた人々は結局どうなるのか。燃え尽きた本人が退職を申し出たとき、企業は引き止めたりしないのか。

【A1】業界が勃興し急速に成長していた1990年代までは、莫大なストックオプションの行使益を得られたこともあり、ソフトウェア開発者たちが燃え尽き現場から去っていくことはさほど問題視されてこなかった。業界の成熟に伴い「太く短い」働き方が難しくなり、休職制度など雇用の継続を意図した企業施策が整備されつつある。しかし、燃え尽きたとしてもそれを表向きの理由として辞めていく開発者はほとんどおらず、また、本人の自由意思による選択だという限り、企業も特に引き止めることはしない。

▼分析に関して

【Q2】エンジニア〈コード〉について。これは、結論なのか前提なのか。また、企業文化なのか職業文化なのか。

【A2】エンジニア〈コード〉は、インタビューにおける聞き手自身の「構え」を自己言及的に反省することによって発見・抽出されるべき、ソフトウェア開発者にとっての自明の常識である。が、博士論文では自己言及的反省過程の記述が不十分であり、まるで分析の前提であるかのように見えてしまっている。また、質疑応答のなかで指摘があったように、語り手のライフストーリー/ライフヒストリーをさらに書き込んでいくことによって、X社の企業文化ではなく、特定の時代的状況を背景に形成されてきたある種の職業文化としてのエンジニア〈コード〉の性質が鮮明になるはずである。

【Q3】「デスマーチ」は企業による規範的統制の結果ではなく、現場の開発者たちの能動的・戦略的実践の結果だということだが、現場の人々が勝手に「デスマーチ」を作り出しているという理解でよいか。

【A3】まず、ソフトウェア開発という仕事が非常に不透明な迷宮であること、そして、開発者たちが決して誰かに強制されたわけではなく、各々の生活史に裏打ちされた固有の意味を見出してこの現場にいるということを押さえておきたい。そして、ソフトウェアづくりをめぐる自明の常識としてのエンジニア〈コード〉を見抜き用いることによって迷宮を迷わず歩き、みずからがこの現場にいる意味を追求・達成しようとするなかで、必然的に死の行進へと巻き込まれていく。「管理か自律か」という従来の労働社会学の二分法的命題を超えて、業界全体を覆う自明性の問題として「デスマーチ」を理解することが重要。

【Q4】エンジニア〈コード〉が、草創期のソフトウェア開発現場に特徴的な状況を鋭敏に見抜きふるまう人々の実践によって立ちあがってきた常識的知識であるならば、現場をとりまく状況の変化に応じて、〈コード〉もつくりかえられていくはず。そのあたりの変化の実情はどうなのか。

【A4】かつてのベンチャーが大企業となり、若者であった開発者たちも歳をとり、ネットワーク時代を迎えてテクノロジーがさらに不透明化するなか、個人の「抱え込み」によって不透明性を統御しソフトウェアをつくりあげることを自明とするエンジニア〈コード〉が、常識として通用し難くなりつつあることは確かである。しかし、ソフトウェア開発テクノロジーの性質上、確立された「体制」に甘んじることのないベンチャーが常に勃興し続けており、エンジニア〈コード〉は、かつてほど絶対的に自明な常識とはいえずとも、絶えることなく息を吹き返し続けている。

▼研究の実践的意義に関して

【Q5】「デスマーチ」を現場の人々の能動的・戦略的実践の結果と読み解いたところで、それを聞いた現場の人々はどう思うのか(本研究の成果が、現場の人々にとってどのような意味をなすのか)。

【A5】本研究が強調したいのは、当事者の能動性・戦略性そのものではない。当事者の能動性・戦略性に着目することで強調したいのは、当事者がみずからの能動的行為の結果として内罰的にしか捉えることができない「デスマーチ」が、実は、この業界に独特な常識的知識を背景とした相互行為の過程を通してはじめて生起する現象だということである。2000年代以降の変化を受けて、「デスマーチ」を内罰的に捉えつつも漠然とした疑問を覚えるソフトウェア開発者が増加している。そのような当事者たちにとって、本研究の成果は、「デスマーチ」を自己責任ではなく業界の歴史に根差す「あたりまえ」の問題として言語化し、内罰性を超えて変化への声をあげることを可能にする契機となるはずである。

【Q6】とはいえ、「デスマーチ」を、ソフトウェア開発者ならではのエスノメソッドから立ちあがる現象として解読したことは、企業がソフトウェア開発者たちを自発的に働かせ、搾取するための方法を明かしたことになるのではないか。

【A6】企業は労基署への説明責任を負っているのであり、管理・人事部門の人々に話を聞く限り、ソフトウェア開発者を搾取するどころか、むしろ定時で帰らせることに腐心している。ところが、「デスマーチ」を単なる労働時間の長さの問題や、開発者個人のオタク的没入の問題として理解しているため、企業として従業員の働き方を適切に管理する施策はまったく実を結んでいない。「デスマーチ」を業界全体を覆う「あたりまえ」の問題として解読した本研究の成果は、開発者たちだけでなく企業もみずからにとっての「あたりまえ」を相対化し、従業員の健康を守る実質的に有効な施策を模索する資源となるはずである。

▼今後の課題に関して

【Q7】博士論文で取り上げた事例の男女比はどれくらいか。関連して、「デスマーチ」はある種の男らしさを体現しているようにも思われる。ジェンダーの問題として捉えることも可能なのではないか。

【A7】ソフトウェア開発は体力に依存しない知的労働であり、雇用や昇進上の性差別がほとんど見られないにもかかわらず、その現場は、明らかな男社会をなしている。技術職の約8割が男性であり、博士論文で事例として取り上げた9人のうち女性は2人、(報告の場では言及しなかったが)特にキャリアの長い女性を探すのに苦労した。報告者も、ジェンダーの問題への目配りは必須であると考えている。ソフトウェア開発現場における「ガラスの天井」がいかにして形成されているのか、そして、それが「デスマーチ」とどのように関係しているのかを具体的に明らかにすることは、今後の重要な課題である。

【Q8】教師の世界や出版業界、医療現場における労働といった関心に引きつけて報告を聞くことができた。ソフトウェア開発者の「デスマーチ」と、これら他の現場の自発的労働との共通点/差異については、どのように考えているか。

【A8】「デスマーチ」を、規範的統制や日本的組織の性質に由来する一般的現象ではなく、ソフトウェア開発現場に独特の現象として解読したといいつつ、実は、分析の核となるソフトウェア開発現場に独特な常識としてのエンジニア〈コード〉が、どこまで/どのように独特なのかは十分に検証できていない。教師の世界や出版業界、医療現場などはもちろんのこと、アニメーターや商業デザイナーなど、知的・芸術的で客観的拠り所のない仕事の現場における自発的労働の事例と比較して、ソフトウェア開発現場の「デスマーチ」の特殊性を精緻に明らかにしていくことは、今後の重要な課題である。

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夏期研究会報告

ニューカマーの子どもの学習継続要因:日系南米人高校卒業者の語りより

原田かおり

●報告要旨
1.1.研究背景
2014 年、日本における在留外国人数は約 212 万となっている。このうち在留資格で「永住者」が約 67 万人で全体の約 32%を占め、地域別にみると、中国、韓国・朝鮮、フィリピンにブラジルが続いている。
1990 年代前半に出稼ぎ労働者の典型と見なされていたブラジル人は、現在約 62%が、ペルー人は約 69%が「永住者」資格を持つ滞在者となっている。総じてニューカマーと呼ばれる彼らは、子どもを連れ、あるいは日本で子どもを産み育てるようになった。今、その子どもたちの不就学、不登校などの教育問題が浮上している。
日本の法律は外国人の義務教育を認めていないために学齢期でありながら不就学、あるいは学校に行っても授業についていけず不登校になりやすい。日本の学校に入学、編入したとしても教育制度、言語の問題、家庭環境などから、進学をあきらめていくケースも目にする。中学卒業で就職したとしても、親と同様の単純労働者、派遣労働者となり不安定雇用で職を転々とする者も見受けられる。
彼らの教育問題に関する研究において、日本の学校文化への適応に焦点が当てられた学校批判、教師批判などの議論は盛んであるが進学を果たしていった者、特に高校卒業者に焦点を当てた質的研究は相対的に少数である。

1.5.研究目的と意義
日本の教育制度は、外国人の子どもには義務教育への就学義務はない。そのため、日本の学校側にもニューカマーの子どもたちを受け入れる経験の蓄積も体制も整っていない。
その子どもたちの特徴として、入学、編入時に日本語を解さない者が大多数を占める点があげられる。このような状況下で、不就学、不登校にならず義務教育課程の中学を修了し、日本の高校への進学、卒業率は低いことが推測される。

本研究では、義務教育を終え、さらに高校へ進学、卒業し、自分の将来を設計していくニューカマーの高校卒業者を対象とする。彼らの困難を分析し、それを乗り越え高校卒業に至った要因を語りから探ることを目的とする。高校卒業者の経験を掘り下げることで、ドロップアウトせずに継続できる要因を解き明かすことができるのではと推察する。その要因を明らかにすることで、ニューカマーの子どもたちの将来を考察する際の一助となればと考える。

3.1.フィールドについて
3.2.調査協力者
今回は協力者 B に焦点を当て分析、考察を試みた。

●質疑応答

1.ニューカマーの子どもたちの学習を継続させるものとして、日本語習得が重要であると思われるが、それを可能にする日本の教育システム制度はどうなっているのか。日本語習得の機会、継続支援とのつながりはどのようになっているのか。そこに焦点を当てるべきではないか。
→日本語教育支援について学校の体制等を調べ研究に追加していく。

2.結論として、「相手の持つ排他的な壁を乗り越える」との表現は危険ではないか。日本の教育制度を叩くべきではないか。
→結論は暫定的なものであり、確かに性急である。気を付けながら考察を進めていく。また教育制度批判はこれまで多くなされているので、本研究では協力者自身にとって、彼らが危機的状況と捉えているものは何であるのか、それを本人がどのように乗り越えてきたのかに焦点を当て考察していきたい。

3.背景が全く違う協力者(国、年齢、来日年等)をまとめられるのか。対象を絞る必要有り。共通点を探すのは無理があるのではないか。自分の学業達成をどのような方向でするのか、一人一人をよく見ることが必要。
→協力者の共通点として、山梨県で日本の学校に進学し、高校を卒業した日系南米人とした。そもそも入学しない者やドロップアウトしていく者が多い中、高校に進学し、卒業までを果たしたという点に注目した。
また共通項に対する指摘については、分析段階で、危機的状況や乗り越えた要因として建てた項目の重なりが見え、カテゴリー化する難しさを感じていた。今後は一人一人の語りを時系列ごと、あるいは、テーマごとに解釈を試みる。

4.協力者 B について、2008 年のリーマンショック後に、多くのブラジル人が派遣切りにあったが、その時期に両親はどうだったのか。一番の危機的状況が語られていないのでは。そこを外したのはどうなのか。
→協力者 B に関しては、県内の大手食品会社に家族 3 人が勤務していて、派遣切りはなかった。親の雇用形態が、危機的状況に繋がることは大いにあるので、注意して見ていきたい。

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夏期研究会報告

生殖補助医療後の出生前診断の経験についてのインタビュー調査

山本佳世乃

【発表概要】

出生前検査受検者を対象としたライフストーリー研究調査の計画発表を行った。生殖補助医療経験による出生前検査体験の違いを明らかにすることを目的としている。
ライフストーリーの解析には報告者(山本2015)による分析(「分析 1 ライフストーリーに対する意味づけ」、「分析 2 ライフナラティヴ」、「分析 3 ライフストーリー内の他者」)を用いる予定である。

【質問・応答】

1) 医療領域において、ライフストーリーという語はどの程度通じるものか。
→ 固有名詞もしくは学術的な用語としては認識されておらず、一般的な英単語として捉えられていると思う。ナラティヴについては、言葉自体はだいぶ認識されつつある。

2) 侵襲という言葉の意味について質問。侵襲性の低いインタビューとあるが、侵襲というのは身体的に負担が少ないことの意と説明されていた。どういった意味か。
→ 侵襲は危害・負担があることの意味で用いている。身体的な意味でも心理的な意味でも使うことができる。

【コメント】

1) インタビュアーの当事者性について
インタビュアー自身が出生前検査についての遺伝カウンセリング担当者である。そのため広い意味での当事者性をもつといえる。分析 2 にこの点を含めておくとよい。

2) インタビュイーを取り巻く社会について
本研究の場合、インタビュイーはメディアから影響を受けている可能性が高いと考えられる。分析 3 にメディアを入れておくことは重要と思う。

参考文献

山本佳世乃 (2015) ライフストーリー分析指標の開発 遺伝カウンセリングへの応用を目指して,風間書房

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夏期研究会報告

マンガ経験とナラティブ・アイデンティティ

池上賢

【報告要旨】

本報告では、マンガ経験を媒介にしたナラティブ・アイデンティティの構成・提示の過程について明らかにした。
はじめに、理論的な視座として Abercrombie と Longhurst らが提示したスペクタクルとパフォーマンスのパラダイムの有効性を主張した。また、本研究におけるアイデンティティがナラティブ・アイデンティティであることを示した。そのうえで筆者は自身が実施したライフストーリーインタビューから 3 人の協力者のマンガ経験に関するインタビューデータを分析した。
結果として、以下のことが明らかになった。まず、人々はマンガ経験を媒介にしてアイデンティティを提示することが可能である。次に、アイデンティティに関わるようなマンガ経験は、個人のライフストーリーにおいて重要な意味を持つものとして意味づけられることがある。アイデンティティの構成は、常に生起する可能性を持つものである。そして、それらの過程は相互行為の中で行われている。以上の点が明らかになった。

【質疑応答】

本報告に対しては、さまざまな有用な指摘をいただいた。以下、筆者が特に重要と考えた指摘の内容及び、それに対する現段階での筆者からのリプライを記載する。

1.アイデンティティを構成・提示すると書いてあるが、マンガ経験を語ることで“構成する”という表現を使うと言い過ぎになってしまうのではないか。ナラティブ・アイデンティティはある個人にとって核となるアイデンティティであり、それがマンガについて語ると構成されるというと、よほど強い関わりがないと主張できないのではないか。
→構成・提示という表現は、本稿の第 1 稿から使用している表現である。しかし、改めて本研究において使用しているデータを検討しなおすと、確かに「マンガ経験を語る中で、アイデンティティを構成する」という表現を用いると、当該の人物の統一的なアイデンティティの全体像が、あたかも“マンガのみ”によって構成されるという誤解を与えると感じた。
この点については、原則として“提示”という表現を使用することを検討したうえで、語り手のナラティブ・アイデンティティの(全体ではなく)どのような事柄が提示されたのか、検討しなおすこととしたい。

2.研究の位置づけが微妙なところがある。従来通りの受け手研究の文脈だと、漫画を受け手がどう解釈するのかという点が中心になる。しかし、ナラティブ・アイデンティティとの関係だと漫画じゃなくてもいいのではないかということが起こるのではないか。なぜ、マンガ経験なのか、どのようなインタビュー構造でこの語りで得られるのか。
→マンガに注目する理由については、ほかの方からの質問にもあった。筆者としては、この点については、本文中において記述したつもりであるが、説明不足であると思われるので、さらに加筆することも検討したい。また、どのようなインタビュー構造でこの語りが得られるのかという点については、インタビューの相互行為過程について記述が不足しているという指摘もあったので、インタビューデータの提示にあたってより詳細な記述を行う必要性を感じた。

3.パフォーマティブということを語りだけ裏付けるには、狭すぎる。マンガに関する経験が、自分の経験の中にこういった形で表れている、あるいはそれを踏まえて日常生活の中でこうしている、という点についてインタビューデータの裏付けが必要。
→この指摘は 1、2 と関連付けられる問いであると思われる。分析過程を振り返ると、表面的な語り、ないしマンガに関連する語りばかりをとらえることに終始していた。この点についても、この点については、インタビュー場面における「自分について言及している部分を探してはどうか」という指摘も踏まえて、インタビューデータを改めて分析したい。いずれにしても、マンガに関連しない事柄も含めて、アイデンティティがどのように語られているのか再検討した。

【総括】

報告および質疑応答を全体的に振り返ると、本報告における最大の問題点は、協力者のナラティブ・アイデンティティや、アイデンティティの関連性が、単純化されて記述されている点にあるのではないかと感じた。修正にあたっては、トランスクリプトを全体的に見直したうえで、マンガにかかわる経験が、各個人ごとに、どの程度、あるいはどのような点について、アイデンティティにかかわっているのか、より詳細に記述できればと考える。

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4相の連続関係としてのカリキュラム概念–コア・カリキュラムと三層論をめぐる元教師インタビューを手がかりに

金馬国晴

1) 用語の定義(コア・カリキュラム、問題解決学習など)。
専門外の方に向けては、丁寧に説明を書き込む必要を感じた。また、インタビュー対象者(インタビューイー)の言葉にしても、研究者(インタビューアー)との共通認識がある場合にも、読者にとっては知らないことがあるので説明がいる。
とはいえ、研究者とインタビュー対象者の定義が実はズレている場合もあるので、その場合は注意して分析を加えて、説明する必要がある。

2) 学校のカリキュラムの全体構成というものの必要性を主張するものだが、現在に関する研究ではなく、戦後初期の研究をするのはなぜか。対象者を元教師(高齢者)にすえてインタビュー調査をすること自体の意義から、説明をしなければならない。

3) 数十名へのインタビューによって何らかの共通性を見出す、という課題ならば、理論的飽和をねらわなければいけないのではないか。

今まで50名ほど、機縁法で探してインタビュー記録を増やしてきた。桜井先生の見解では、それはめちゃくちゃ多いの数字であり、ベルトーの説では25人が目安とのこと。

インタビュー対象者である教師によって全然語りが違う、ということは十分に示せる人数である。

4) 私は院生時代は、思想史、論争史で研究を進めてきた。だが、それでは不十分だと気づき、当時の教師にインタビューを進めるようになったが、そうすることで、当時の彼らが、本や雑誌が書かなかった現場特有の問題に悩んでいたことが分かってきた。

問題は「形式化」(物象化)というものであり、カリキュラムというものを計画する(図・表にしたり冊子にまとめる)ことが難しいこと、それらを作るだけで力尽きて実践に移さなかった例があったこと、いったん計画することで「固定化」してしまい縛られたこと、などである、とわかってきた。

当事者に聞き取ることで見えてきた問題や、または詳しく実感を込めた言葉でわかってきた問題があったのである。

5) 先行研究は、カリキュラムの図表(カリキュラム構造)について主に議論してきた。
そこに、インタビューから分かる「教師の経験」を加えることで、カリキュラムの定義を厚くしていくことをめざしたのである。
さらに、教師の「カリキュラム経験」という新しい概念を提案するものである。
ただし、それが戦後初期という時代には、特にどういう特徴があったかという特殊性に関する言及もいる。

6) カリキュラム経験という概念を、一つの大きな主張として出してくることには、多くの教師にインタビューするかの問題ではなく、「実際の経験」の詳細が重要なポイントになる。
説得的に言えればいい。いかに教師が苦労をして「自分なりの」カリキュラム(計画)を各校で作ってきていたかを提示していく。

7) 論文では、丁寧な記述をしていけばいい。逆に、要約的にするとよくわからない。
いろんな書き方の工夫は必要。
例えば、ある「コンテキスト」を作った上で、A先生がどう語って・・といろいろな方面から整理していく。その人の人生に関わるような流れを出すべきときには、その人個人を採り上げていき、彼/彼女の「アイデンティティ」を描く。
ある特定の項目については、AもBも、と「切片化」して並べ、語りを整理していく。一つ一つ論を立ててから、整理していく。そのことに言及していない人もいるので、全員を引用するわけではない。引用する切片には「差異」があっていいしその方がいい。AとA’と・・。そのズレこそ経験の特色。

8) 理論的な考察を絡める場合。
「そういう語りを、自分は○○と解釈した。」と書けばいい。
恣意的に理論を作って語りを切るのでなくて、一人一人の語りを活かすことによってわかってきた、という流れで。
問題が見えていない場合は、語りの中から理論を見出すわけだが、今回の場合は逆。
「経験がもっている重さ」の方を強調する。経験はもっとおもしろい、と強調する。
この研究では問題が見えているので整理すればよく、かつ経験がもっているインパクトを強調する。歴史的な背景をもって。こんなふうに語られたということで。

9) 3例や5例でも、「10例やっている中で特徴的だから」といえればいい。

10)機械的な項目立ては考え直した方がいい。
インタビューをもとにした場合は、「整理の仕方」が違ってくるはず。経験の中で見えてきたことを整理する枠組みを。

11) この研究は「オーラルヒストリー」にあたる。特定の事象に焦点化し、歴史のある経験をとらえている。
「ライフヒストリー」と称すると、今の時点で、現在と過去に触れることになる。相互行為的でなくても今だから、当時そう思っていた、といわなければならなくなる。「ライフ」という人生の幅を含めて聴く。その前までどう暮らしてきて、今に至っているのか。断片の一言であっても、ライフストーリーにはなる。
対して、「聞き取り」とは、自分に必要なテーマだけになる。

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合評会:青山陽子著『病いの共同体――ハンセン病療養所における患者文化の生成と変容』

評者:池上賢、矢吹康夫

●池上
まず本著の概要および構成についての説明があったのち、主に2点のコメントが寄せられた。
一つは本著で分析概念として用いている「文化コード」の定義に関する著者の意図についてである。アルヴァックスの集合的記憶論における記憶の枠をなぜ「人びとがモノ・コトを理解するために用いる記号的なルールの体系」=文化コードと定義し直しているのか。

ふたつめは本著の構成内容に関する建設的なコメントである。
本著は序章、第一章、第一部生活の語りからみる患者文化の諸相(2章から5章まで)、第二部患者集団の記憶の枠に寄り添い、離れつつ語る自己(6章から9章まで)、第三部消えゆく患者集団の記憶の果てに(10章から11章)、終章の構成になっているが、第二部のなかで8章9章の位置づけがあいまいであり、少し浮いている印象がある。
またハンセン病問題に熟知していない者にとって、第三部(特に10章)を先に展開したのちに、第一部第二部と進んで行った方が本著の理解を優しくするのではないか。

丸矢吹
矢吹氏からも池上氏の二つ目のコメントと同様の意見がなされた。
10章を読むまで2章から9章までがぼんやりした印象になった。また患者文化に着目するという研究課題に関する経緯が「おわりに」で簡単に述べられているが、もう少し具体的にどんな経緯だったのかを明らかにしてほしいとの要望が出された。

さらに第2部6章9章における自己物語の語りの分析にて、筆者がインタビューの際に語り手の話を制御できなかったというエピソードが紹介されているが、そのやりとりの記述が薄い印象を持った。やりとりに対する分析の厚さにこそ語り手が何を重視して語ったのかが明らかになると指摘した。

最後に6章7章は断種・堕胎の優生手術と関連する語りが記述されている。
本著では患者社会で共有されてきた経験や記憶から語りを分析しているが、評者としては「サラッ」とした印象を受ける。
ハンセン病文学で表現されている優生手術に関する患者の苦情や葛藤と乖離しているように感じられた。

●池上氏に対するリプライ:
集合的記憶の枠を「文化コード」と定義し直した理由について。集合的記憶論には言語学および認知心理学的な視点から集合表象を捉える視点が不十分であり(※その視点はアルヴァックスの集合的記憶論に萌芽的には存在していると筆者は捉えている)、本著においてアルヴァックスの集合的記憶論をさらに発展させることを意図して定義をし直した。

論文構成について。第一部=集合的記憶、第二部=個人的記憶、第三部=社会的記憶と位置づけて構成を考えた。9章10章はライフヒストリーに近いかたちの自己物語から戦後大きく移り変わって行く患者社会を捉えることを意図して記述した。自己物語のなかにおける患者社会の文化コードとの関係を分析している7章8章から少し異質な印象をもったとする指摘は確かにもっともな指摘である。長い調査期間、研究課題が一貫していなかったことに要因があると考える。著者の言い訳を述べるならば、第二部の論点は自己物語はいかに多様な枠(文化コード)を参照しながら表現されるのかということを示すことでもあり、その狙いは達成されているのではないかと思っている。

●矢吹氏に対するリプライ:
10章を先に持ってこなかった理由としては前述した第一部から第三部までの集合的記憶論と関係した論文構成を意図していたからである。また患者文化はハンセン病訴訟と対立関係のなかで発展したものではない。池上氏も指摘しているように、確かに本研究の着想を述べた序章の理解を容易にするために10章を先に取り出すという提案は理解できるものの、筆者は患者文化をハンセン病訴訟との対立軸で捉えるべきではないと考えており、現段階の構成で満足している。

第二部は前述のような論点に主眼があった。それゆえに語り手の表現方法に対するまなざしはここでの論点ではなかった。ただ6章の語り手がなぜ娘の話をしたかったのかという点を改めて解釈すれば、彼女の出産のエピソードは患者社会のなかでも象徴的な出来事として人びとに意識されていた。またハンセン病作家・冬敏之『ハンセン病療養所』の作品のモデルになっている(追記:ちなみに彼女をモデルとした登場人物は作品のなかで「子どもを生みたい」と主張する。また冬が作品を書くためという理由で彼女に何度か取材を行っている)。そのような彼女の経験から娘の話をすることが自己表現のひとつとして選択されたのではないか。ただしあくまで解釈の域を超えないという点は指摘しておく。またこのような点を踏まえつつ、ハンセン病文学において優生手術をモチーフとして自己の苦悩を描き出すという表現方法はいつ頃から盛んに行われるようになったのかといった知識社会学的分析も一方で行われる必要があると感じる。

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海外生活が駐在員の配偶者の家族観に与える影響―4人の女性の語りから―

三浦優子

[質疑応答まとめ]
1.インタビューについて
①モデルストーリー、マスターナラティブについて研究方法でうたっているが、実際に語りの中にどのようにあらわれているか。それが明確に語られていないようだが。

⇒モデルストーリーは、妻・母という立場を強く意識し、育児・家事をしっかりやっていこうとする語りに表れている。
「~しなくちゃいけない」という語り方は、自分達が属するコミュニティや当時の日本人社会に流布していると感じているモデルストーリーに影響を受けていたと言える。

マスターナラティブは、社会に流通している支配的な文化の語り方であるが、同じ職場内での結婚は、女性が円満退社しなければいけないというのもその表れであると思われる。

論文の中では、結論の章で、語りとモデルスト―リーの関連性を述べているが、更に明確化する必要があると思う。
そのためには、インタビューを重ね、話を聞き、理解を深めていく必要性を痛感した。
インタビューの重要性、大切さを再認識した。

桜井⇒実際にモデルストーリーとマスターナラティブの境界線は明確でないが、インタビューの中の、「妻が会社をやめなければいけないんですよ」という語りにおいて、夫がそう言っているのか、会社がそうしているのか、あるいは、自分がそのような家族観の中で育ってきた背景(親のしつけ等)からそう考えるのか、などはっきりさせる必要がある。
そのような背景がヒントになり、ストーリーの構図が見えてくるので、短いインタビューでは無理。
インタビューをしっかり重ねることが必要。

②仮説を持ってインタビューにのぞんでいいのか。

⇒先行研究で当時の時代の文献を読み、マスターナラティブをある程度読み取ってからインタビューを行った。

桜井⇒先行研究などの文献を読み、仮説を立ててインタビューをするという考え方はできる。
インタビューでは、照らし合わせの作業になる。

③報告者は、どのような価値観を持ってインタビューをしたのか。

⇒自分と同じ目線でみたり、転機があったはずだという期待をもってインタビューをしてしまっていたことは反省。
特にAさん(今回の報告では取り上げていない)の語りでは、何か海外生活でインパクトが強いことは思いつかないとのことで、逆に何かあるかと調査者が聞かれてしまった。そのことは論文内に言及。

④報告者自身は転機があったと思うか?

調査対象者の語りを聞くうちに、自分も転機があったように感じた。
インタビューをする前に、自分だったらどう語るかという事をしっかり捉えてから、インタビューに臨むことが大切だと感じた。

⑤結論の章のなかに「今までは、家族という枠組みの中に自分を置いていたため、その中にいる妻・母の役割をする自分しか見えなかったのが、今は、海外生活により、自分を家族という枠の外に置くようになった」とあるが、唐突過ぎて理解しづらい。
渡航前も、仕事をしていたのだから、妻・母以外の役割も持っていたのではないか。
海外では、ビザ等の関係で仕事が出来ず、妻・母の役割をせざるをえなかったわけで、渡航前と渡航後のアイデンティティのつながりがよく分からない。

⇒仕事を辞めて、海外に行く夫に帯同して、渡航することを選んだという事から、単純に渡航前は、妻・母という役割に価値観を置いていたと捉えてしまったが、確かに、渡航前の妻・母役割に対する価値観や、アイデンティティを明確にする必要があったと思う。
ただ、海外生活によって、今まで持っていた価値観から解き放たれたことは、帰国後の語りからみられるのではないだろうか。
渡航中に自分と向き合い、帰国後は、妻、母の役割を捨てるわけではないが、別の自分の生き方も探しているように見える。

しかし、問題点として、海外に行く前にアイデンティティをしっかり突き詰めていくことがなされていない、インタビューで聞くべきことが聞けていないと思う。

⑥Kさんにとっての「華やかな暮らし」とは実際何なのか。それがどのように変わったのか知りたい。

⇒「華やかな暮らし」という言葉を聞いたとき、自分の海外生活経験から、違和感なく、何の疑問も持たず捉えてしまったが、Kさんにとっての「華やかな暮らし」とは何を指しているのか、聞く必要があったと思う。
また、その変容もインタビュー時には、分かったつもりでいたが、書き起こしてみるとしっかりと聞けていないところがあり、明確化できていないように思う。

⑦自分自身は、当時は行きたくなかったのに、なぜ海外生活アドバイザーの仕事をしているのか。
当時、渡航時に自分なりにディレンマがあったと思われるが、なぜ、今、このような仕事をしているのか、そこに至るまでの事がちゃんと聞けていない。

2.海外生活が家族観に影響を与えているのか?

①研究の目的は、「配偶者の家族観が、海外生活によってどのような影響を受けているかを考察する」とあるが、明確にされていない。
家族観がどのような影響を受けているのかではなく、個々の生き方が影響を受けているようにみえる。
40代、50代の家族観をはっきりさせて(できるのかは、わからないが)、家族社会学、ジェンダー研究の分野で何か新しいことが言えるのかをみていく。
先行研究をもっと深く見て、インタビューから明らかにしていったらどうか。

⇒研究では、家族観としてまとめたが、確かに個と夫、子供に対しての関係に影響を受けたと言った方が、いいのかもしれない。先行研究をもっとしっかり読んでいくことにより、新たな発見につながる可能性があると思う。
しかし、少なくとも語りは、聞き手、話し手両者に大きなパワーを与えたように感じる。

②海外に行った経験をしなくても「自己をもちたい」という気持ちは、配偶者女性に生まれてくるのではないか。
子供の成長が大きく関係していると思うが。

⇒確かにそれはあると思う。ただ、転機がなければ、気持ちはあってもなかなか実現は難しいのではないだろうか。

③海外から影響を受けたという語りがあまり見えない。国内転勤でも、地域の文化、生き方などに出会い、自己に向き合うことがあると思うが。

⇒確かに国内でも同じようなことが、起こり得ると思うが、海外では専業主婦で仕事もなく、時間があるという点では、国内とはまた違った状況ではないか。

3.別の観点、切り口から語りを聞き、解釈、分析する。

①Hさんは、自分も子供の時に海外経験があり、その経験がどのように影響をしているのかを見てみるのもよいのではないだろうか。

⇒Hさんの語りには、子供時代の事もよく出てきているので、もっとそのあたりを聞いておくべきだったと思う。

②Hさんは、息子の不登校の事で自責の念を感じているとあるが、これは海外生活による影響というよりも、むしろ、ジェンダー役割観を追従させる気がする。

⇒不登校という点から深く留意してみていく必要性は確かにあると思う。

③Kさんにとってイタリア人女性は、「理想の姿」とあるが、あこがれ、尊敬という気持ちで、本当に理想像だったのだろうか?

⇒確かに、理想と思っても実際にそうなりたいと思っているのかは疑問がある。
今回の報告会では、取り上げなかったが、シンガポールと上海に9年間生活した50代のYさんは、海外で出会ったシンガポール人女性の生き方(弁護士で、小さな子供がいても自分は、子供を置いて、勉強にオーストラリアに行く)には、衝撃を覚えるが、自分は、夫のサポートに徹する生き方を選んだ。
理想と現実は違うことがある。理想であるが、単なる憧れなのかという事も考慮して、インタビューしていく必要性がある。

④Kさんは、海外で、かなりつらい思いをしたが、両親のサポートはあったのだろうか。

⇒Kさんの夫の両親については、語りの中に出てきたが、Kさんの両親についてさらにインタビューを重ねることもKさんのライフストーリーをみていくうえで必要であると思う。

⑤語りには、近代的自己がよく表れている。海外生活を意味あるものとして捉えたいという気持ちを持ちやすいが、「転機とはなにか」ではなく、別の切り口でまとめてもよいのでは。

⇒海外生活は転機をもたらしたはずという思い込みがあったように思う。そこから一度離れて、別の切り口を持つという、良いアドバイスをいただいた。

⑥Hさんは、カウンセリングの仕事と宝くじ売り場の仕事をしているが、両方できるのか。
どちらか優先しているのか。その場合は、なぜそうなのかを聞くことにより、何かが見えてくるのではないか。

⇒宝くじ売り場の仕事を優先していて、カウンセリングの仕事は、断ることもある。

なぜ、宝くじ売り場の方の仕事を選ぶのかをインタビューで、明らかにしていくことにより、Hさんのストーリーがもっと見えてきたと思う。

⑦Kさんはキリスト教に入信したが、入信したことが語りに影響しているのではないか。
夫の駐在に帯同していき、つらい思いをしたが、ついていったおかげて今の自分があると言っている。
語りは思想を通して語られるという事もあるのでは。

⇒キリスト教入信が、語りに影響しているという視点は、解釈の際、考慮しなかったが、関係性も考えられる。今後留意していきたい。

4.報告要旨について

「海外に行く羽目になった」とあるが、ネガティブに聞こえる。意図的にその言葉を使ったのか。

⇒自分の中では、無意識のうちに使ってしまっていた。確かに、ネガティブに聞こえるが、自分の意志でなく、海外に帯同したという事で、使ったと思う。

桜井⇒この研究テーマでは、自分の意志がないという事で、使ってもよいと思う。

①個と家族の関係ではなく、個と個の関係を見る。

個と家族というまとめ方をして、家族観としているが、個から夫、個から子供を見る、という関係から見ていく必要がある。そうしないと誤解を招く。

②聞き手と語り手の解釈の共有が大事

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