例会レポート(5月) ライフストーリー研究会

青山陽子著『病いの共同体――ハンセン病療養所における患者文化の生成と変容』

新曜社、2014年

評者:池上賢(立教大学)、矢吹康夫(学振研究員)

●池上
まず本著の概要および構成についての説明があったのち、主に2点のコメントが寄せられた。
一つは本著で分析概念として用いている「文化コード」の定義に関する著者の意図についてである。アルヴァックスの集合的記憶論における記憶の枠をなぜ「人びとがモノ・コトを理解するために用いる記号的なルールの体系」=文化コードと定義し直しているのか。

ふたつめは本著の構成内容に関する建設的なコメントである。
本著は序章、第一章、第一部生活の語りからみる患者文化の諸相(2章から5章まで)、第二部患者集団の記憶の枠に寄り添い、離れつつ語る自己(6章から9章まで)、第三部消えゆく患者集団の記憶の果てに(10章から11章)、終章の構成になっているが、第二部のなかで8章9章の位置づけがあいまいであり、少し浮いている印象がある。
またハンセン病問題に熟知していない者にとって、第三部(特に10章)を先に展開したのちに、第一部第二部と進んで行った方が本著の理解を優しくするのではないか。

丸矢吹
矢吹氏からも池上氏の二つ目のコメントと同様の意見がなされた。
10章を読むまで2章から9章までがぼんやりした印象になった。また患者文化に着目するという研究課題に関する経緯が「おわりに」で簡単に述べられているが、もう少し具体的にどんな経緯だったのかを明らかにしてほしいとの要望が出された。

さらに第2部6章9章における自己物語の語りの分析にて、筆者がインタビューの際に語り手の話を制御できなかったというエピソードが紹介されているが、そのやりとりの記述が薄い印象を持った。やりとりに対する分析の厚さにこそ語り手が何を重視して語ったのかが明らかになると指摘した。

最後に6章7章は断種・堕胎の優生手術と関連する語りが記述されている。
本著では患者社会で共有されてきた経験や記憶から語りを分析しているが、評者としては「サラッ」とした印象を受ける。
ハンセン病文学で表現されている優生手術に関する患者の苦情や葛藤と乖離しているように感じられた。

●池上氏に対するリプライ:
集合的記憶の枠を「文化コード」と定義し直した理由について。集合的記憶論には言語学および認知心理学的な視点から集合表象を捉える視点が不十分であり(※その視点はアルヴァックスの集合的記憶論に萌芽的には存在していると筆者は捉えている)、本著においてアルヴァックスの集合的記憶論をさらに発展させることを意図して定義をし直した。

論文構成について。第一部=集合的記憶、第二部=個人的記憶、第三部=社会的記憶と位置づけて構成を考えた。9章10章はライフヒストリーに近いかたちの自己物語から戦後大きく移り変わって行く患者社会を捉えることを意図して記述した。自己物語のなかにおける患者社会の文化コードとの関係を分析している7章8章から少し異質な印象をもったとする指摘は確かにもっともな指摘である。長い調査期間、研究課題が一貫していなかったことに要因があると考える。著者の言い訳を述べるならば、第二部の論点は自己物語はいかに多様な枠(文化コード)を参照しながら表現されるのかということを示すことでもあり、その狙いは達成されているのではないかと思っている。

●矢吹氏に対するリプライ:
10章を先に持ってこなかった理由としては前述した第一部から第三部までの集合的記憶論と関係した論文構成を意図していたからである。また患者文化はハンセン病訴訟と対立関係のなかで発展したものではない。池上氏も指摘しているように、確かに本研究の着想を述べた序章の理解を容易にするために10章を先に取り出すという提案は理解できるものの、筆者は患者文化をハンセン病訴訟との対立軸で捉えるべきではないと考えており、現段階の構成で満足している。

第二部は前述のような論点に主眼があった。それゆえに語り手の表現方法に対するまなざしはここでの論点ではなかった。ただ6章の語り手がなぜ娘の話をしたかったのかという点を改めて解釈すれば、彼女の出産のエピソードは患者社会のなかでも象徴的な出来事として人びとに意識されていた。またハンセン病作家・冬敏之『ハンセン病療養所』の作品のモデルになっている(追記:ちなみに彼女をモデルとした登場人物は作品のなかで「子どもを生みたい」と主張する。また冬が作品を書くためという理由で彼女に何度か取材を行っている)。そのような彼女の経験から娘の話をすることが自己表現のひとつとして選択されたのではないか。ただしあくまで解釈の域を超えないという点は指摘しておく。またこのような点を踏まえつつ、ハンセン病文学において優生手術をモチーフとして自己の苦悩を描き出すという表現方法はいつ頃から盛んに行われるようになったのかといった知識社会学的分析も一方で行われる必要があると感じる。