目次
●「アルビノをめぐる障害の歴史研究と当事者のライフストーリー(仮)」
●アカデミック・ハラスメントの社会学的研究――学生の問題経験と「領域交差」
●「ひきこもり」をめぐる家族の物語―複合的自伝によるアプローチ―
「アルビノをめぐる障害の歴史研究と当事者のライフストーリー(仮)」
矢吹康夫(2012年5月8日)
[報告内容]
矢吹さんのご報告は、今年度提出される博士論文について構想のご報告であり、アルビノという希少な疾患について障害学に依拠した、従来の歴史の分野でこれまで隠されてきた存在を明らかにし、さらに、ライフストーリーをもとに、彼/彼女たちの生活世界を考察するものである。
・矢吹さんのご報告は、二部構成で報告された。
まずは、「序章」から第9章までの全体の概要の説明である。
そして、第9章で予定されておられるEさんのライフストーリー・インタビューでの「語り」が示された。
・前半の概要:序章では本論文全体を貫く理論的枠組みを提示したうえで、近代以降、多くの障害者が医療化され、あるいは施設収容された中で、アルビノの人びとは異なる道をたどってきたことが指摘された。
第1~4章では、アルビノをめぐる歴史について、①遺伝学、②教育・就労、③問題の可視化をめぐる海外の動向、④近年の国内の動向の4つのアプローチから論じている。
その中で、アルビノが①「生死を左右せず、症状も安定している疾患」であるため、遺伝子治療の臨床研究の対象になっていないこと、②生活の根幹に関わるようなものとして固有の問題が浮上する契機はなかったこと、③1990年代以降、海外ではアルビノの人びとをめぐる問題が顕在化したものの、その過程において当事者の経験の内実が直接に問われたというよりも、制度的手段をもった主体によって社会的に承認されたものであったこと、④日本では長らくアルビノをめぐる研究の蓄積や組織化等がなされてこなかったが、当事者によるオンライン・コミュニティが近年誕生し、記憶や経験を共有する場が提供されていることなどが明示された。
以上の議論をふまえたうえで、第5章では方法論について言及され、続く第6章では、再度先行研究を検討しながら、「アルビノ当事者たちが具体的にどのような困難を経験し、それがいかにして可視化されているか」について論じられた。
たとえば、他者と比較して「生きられないわけじゃない」と過小評価されたり、髪の毛の色について「でも、きれいじゃん」と肯定的に評価して否定的経験を相殺されたりするなど、アルビノ当事者たちは、あらゆる機会を奪われ決定的に排除されているわけではないが、同化努力=よい適応(Goffman 1963=2001)に従順であることが要請されていることが指摘された。
7章以降も当事者たちの「語り」を引用しながら、①アルビノ固有の経験の蓄積・提示・継承を目的とした非/組織的なセルフヘルプ活動(7章)、②生殖をめぐる経験(8章)、③アルビノをめぐる問題への対処戦略(9章)について報告がなされた。
・後半の概要: 後半(9章)は、報告者が「語りがおもしろく、対処戦略のありようが興味深い」と感じているEさんの語りを通して、アルビノの人びとに固有の経験や、その対処の変遷、SHGとの関わり、マスコミが求める「モデル・ストーリー」に対する違和感等について論じられた。
なお、9章は2度のインタビュー(2008、2010)の内容によって構成されている。
[議論報告]
全体の構成や各章の位置付け、語りの解釈をめぐって様々な議論が交わされた。
おもな内容は次の通り。
・報告者がモデル・ストーリーにとらわれ過ぎているような印象がある。
このままの書き方では、「苦難に負けないで頑張りました」といったEさんの「対抗の仕方」に回収されてしまう。
「おもしろいかどうか」という語りがあるが、彼にとってその基準は何なのか。
そこにこの人のストーリーができる可能性があるのではないか。
・報告者もEさんもモデル・ストーリーを否定的に捉えていることは伝わるが、それが何なのかが見えてこない。
それがアルビノの固有の問題とつながっているのかどうかよくわからない。
アルビノの人びとのリアリティを明示するためには、章毎でkeywordをたてて、「固有の問題」を説明してはどうか。
・そもそも「固有の問題」は必要なのだろうか。
「固有の問題」は、ある意味、便利な概念ではあるが、実はそれが何であるのか、よくわからない部分もある。
そこを再考する必要があるのではないか。
(「モデル・ストーリー」に関しても、その扱いをめぐって議論が交わされた)
・ライフストーリーの使い方や方法論の話、「本研究において、固有のその人を中心にまとめた」といった説明をどこかで書くべき。
例えば、「インタビュアーと語り手との関係性が重要であるため、語りを断片的にまとめることは不可能」といった説明が必要。また、章の構成も、歴史的な文脈を踏まえて位置づけた方が良い。
博論は、大きな流れの中で結論を導き出すことが重要。
→報告者:「自分を肯定するために、なぜいったん否定性を引き受けてから克服しなければならないのか。ゼロからで良いのではないか」という思いがある。
差異を称揚することを個性として肯定されることにも抵抗がある。
そこを着地点としたい。
・いわゆる「障害学」の枠組みと、報告者の枠組みをいかに接合させるのか。
→報告者:外見は機能的な役割を果たすものではないのに、それによって不利益を被るということを示すことで、これまで障害学のメインストリームにはなかった視点を付け加えることができると考えている。
・第8章に、優生思想や家族に関する語りがあったが、「自分の子どももアルビノがいい」といった語りはあったのか。
→報告者:1人いた。「子どもがアルビノでなくて残念」という語りがあった。
・調査概要では、盲学校に進学している人の割合が高いが、それはなぜか。
→報告者:世代が上の方は盲学校が多いが、時代とともに普通学校に行くようになった。
視覚障害者のコミュニティは多く存在し、調査対象者は何らかの問題を抱えて当事者組織にアクセスしている人。
・本研究の当事者はどの範囲か。
→報告者:アルビノかそうでないかは、本質主義的にはっきりしている。
つまり、遺伝子一個で決まるため、「当事者か非当事者かは曖昧」という当事者論とは一線を画している。
・Eさんの語りが1回目と2回目で変わったこと、失敗の語りがなされるようになったEさんの環境の変化には注目しないのか。
→報告者:環境の変化は、他の当事者やその家族との関わりが増えたという点で大きい。
そのような変化に関する語りもあったが、特定の人に対する陰口や批判になりかねないため省いた。
→語りの変化には触れた方が良いのではないか。
(鈴木さんの感想)矢吹さんご自身がアルビノ当事者でありますが、流行りの「当事者研究」の枠にとどまらず、(私の場合、ガチで「当事者研究」ですから)アルビノという希少疾患の歴史的背景をも包括している点が、とても矢吹さんらしかったです。
Eさんのライフストーリーも、いわゆるモデル・ストーリーとはかけ離れているところにあり、Eさんもオチをつけたり、矢吹さんご自身も悩まれているところは、それはそれで面白い「語り」であったと思います。(記録 松井由香)
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アカデミック・ハラスメントの社会学的研究――学生の問題経験と「領域交差」
湯川やよい(2012年7月12日)
[報告内容]
湯川さんのご報告は、前日に審査が終わったばかりという博士論文についてのものだった。
まず研究概要について、その後、対話的構築主義のライフストーリー法を用いた調査研究から抜粋してのご報告があった。
また、審査でのコメントをもとに今後の課題についての検討もなされた。
報告では、日本の高等教育・研究者養成における教員―学生間で経験されるアカデミック・ハラスメントに着目し、大学の内部で細分化された「知の独占」が、ハラスメント被害を「生じやすく隠ぺいされやすい」構造的欠陥を生み出してきたと同時に、「知の共同体」の基盤ともなってきたというジレンマを捉えての問題意識が説明された。
学生側がアカデミック・ハラスメントを「被害」と認識する「過程・背景」については説得的議論が提出されていないという先行研究の現状から、研究課題として、①社会問題としてのアカデミック・ハラスメント構築課程を明らかにすること、②ポスト構造主義のジェンダー研究と経験的な調査研究とをどのように接続することができるかを探求すること、③学生が主観的意味世界において教員との関係をどのように理解・評価していくのかという過程・背景を明らかにすることが挙げられた。
研究の方法としては、ライフストーリー手法と「領域交差」の考え方を組み合わせる試みを行ったことが説明され、特にLS研究会ではなじみの薄い人もいると思われる「領域交差」の考え方について説明がなされた。
対話的構築主義のライフストーリーと領域交差の学際手法とを接合することで、ポスト構造主義の理論と経験的研究の接合を志向した点が説明の中心となった。
事例横断分析を行ったうえでの考察として、学生が主観的意味世界において教員との関係性を認識・評価するプロセスに関して、事例間に共通する諸要素を析出して生成された仮説が提示された。
学生の主観的意味世界の中では、「被害」と認識された出来事は単独でハラスメントの実態を構成するものではなく、学生と教員との関係に対する認識・評価の総体として構築されているとし、「関係性としてのアカデミック・ハラスメント」という概念図を用いて説明された。
この説明の中で、「ハラスメントスペクトラム的な領域」について言及され、容易に関係性としてのハラスメント被害に転化しうる領域があることが説明された。
また、一連の事例分析は、理論部分での「ポスト歴史的大学論」と接合された。
調査研究からの抜粋では、博士論文でライフストーリーを記述された事例5名の中から、1名について紹介された。
この事例は、インタビュー時には大学で教員職に就いていた若手研究者であり、指導教員と自身との関係を「全人格的」な「古いタイプの人間関係」としながら、その「古さ」を否定的なものと捉えず、自身が経験した数々の困難を「ハラスメントではない」と明言したという。
最後に、博士論文審査での審査委員のコメントから、前半および4章は良く書けているが、理論部分と5章前半との接合が不十分であり、結論章の前に第6章を設けて各事例の「生の全体性」の中に差し戻す必要があったと指摘されたことが言及された。
[議論]
次のような質問やコメントが出され、議論された。
・【質問】論文目次から推測すると、今回報告されたタケオさん(仮名)の事例(論文中では5人目の事例)は、事例の1人目から4人目まで(学生のアカハラの事例)とは異なった印象を受ける。
あえてほかの事例ではなくタケオさんの事例をライフストーリー研究会で紹介したことには、何か理由や思い入れがあるか?
この事例は、いわゆる「アカデミック・ハラスメント」という言葉からLS研究会参加者が期待(あるいは想像)する事例ではなく、研究者としてのサクセス・ストーリーとも読み取れる。
→湯川さんからは、必ずしも「サクセス・ストーリー」とはみなしていない旨、および理論章との対応において同事例を選択した旨、応答がなされた。
・【コメント】学生自身の力のなさが、教授への不満にすりかわるという側面もあるのではないか?
ライフストーリーを記述している事例のなかには、読むからに「アカデミック・ハラスメント」というものもあるが、主観的体験としてのアカデミック・ハラスメントが、客観的には被害といいがたい場合もあるのではないか。
あらためてアカデミック・ハラスメントの問題の複雑さが浮かび上がる点である。
・【追加コメント】また、そうした複雑さは、本報告では紹介されなかったが、論文発表済みのマリさん(仮名)の事例*などにも典型的に表れている。
→この点は両方の事例を知る参加者によって指摘され、その後両事例を比較するさらに発展的なコメントへと接続された。
その一部は下記。*湯川やよい, 2011, アカデミック・ハラスメントの形成過程―医療系女性大学院生のライフストーリーから―. 教育社会学研究, 第88集.
・【コメント】今回報告を省略したマリさん(仮名)の事例では、最初は被害という認識がなかったのが次第にアカデミック・ハラスメントであると認識されていく高度な気づきがあった。
タケオさんの事例とは、「実践」概念の意味する射程やその含意がかわってくるため、位相が異なるのではないか。
・【質問】第6章を設けて「生の全体性」に差し戻すという審査委員からのコメントについての展望はどうか?
「生の全体性」とは何であろうか?
→幼少期と結びつけた話は語り手に嫌がられる場合があり、必ずしも幼少期からくまなく聞き取れるわけではないことが指摘された。
・【コメント】図で示された「関係性としてのアカデミック・ハラスメント」は興味深い。
「利用されている」と思うか「経験としてプラスになった」とするかは、スペクトラム上にあるということが理解できる。
・【コメント】物語を作っていくときに、結果良ければすべてよしという側面があることも、解釈の1つの可能性として出しておく必要があるのではないか。
・【コメント】「研究者としては良いが人格は・・・」という「よくある話」とは異なる結論が事例横断分析からは導かれている。
・【コメント】「弟子」のほうも「師匠」と同一化しており、師匠を批判することは自分を批判することにつながるという側面もある。
自分の研究につながるのならば、「師匠」を完全に否定はしないという方略もあることが読み取れる。
・【コメント(提案)】語り手が今という視点で語るとき、人となりがわかるよう書き込むとよい。
こういう語が出るには社会的にどういう背景があるか、といった分析があるとよい。
各参加者が大学などで研究に携わるLS研究会の中で、湯川さんが報告されたアカデミック・ハラスメントの問題は高い関心を呼び、熱い議論が交わされた。(記録 柴崎美穂)
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「ひきこもり」をめぐる家族の物語―複合的自伝によるアプローチ―
石川良子(2012年9月19日)
[報告概要]
石川さんの報告は、娘の不登校とひきこもりを経験した父、母、当事者である娘のライフストーリーを紹介し、家族それぞれが不登校とひきこもりを契機として自らの生き方を見直し、再編していくプロセスを描いたものである。
その際、方法論として「複合的自伝」の概念を踏まえ、「各自の語りの整合性→出来事の確からしさ/不整合性→経験の主観性と独自性」に留意し、不登校、ひきこもりについての父、母、娘の解釈についてライフストーリーから検証するという流れとなっている。
父親(夫、60代)のライフストーリーからは、娘が幼い頃は大きな声で叱ったり、あるいは足蹴にしたりすることもあったなど、厳しい父であったこと、娘が学校に通えなくなった時は単身赴任で出張しており、妻から話を聞くだけで状況を把握していなかったこと、その後妻に促され親の会に参加するようになり、不登校について理解を示すことが出来るようになったというプロセスが明らかになった。
また父親(夫婦)はその後広島に転勤し、同地で親の会を発足させ、サラリーマン的な生き方、具体的には会社に限られた人間関係ではなく、会社以外の地域社会における人間同士の付き合いを持つことによって人間関係の幅が広がり、価値観が変わったことを語っており、親の会におけるある人との出会いが自身の人生観を変えたことを物語っている。
さらに闘病経験と定年退職を経て、家族を顧みなかった自らの生き方を自省的に振り返りつつ、夫婦同士、または子どもを含めた家族同士で支えあう生き方を模索していこうと思っている、との語りがあった。
他方、母親(妻)のライフストーリーでは、娘が学校に行き渋るようになってから行かなくなるまでの娘の様子と自身の心境が克明に語られている。
小学校4年から中学校2年までつづいたいじめにより、娘は強迫神経症をわずらうようになり、妻は学校に行かなくてもよいと娘に声をかけ、学校を休ませるという判断をしたと語っている。
しかし、娘には夜通し責められ、腕をつねられるなどの暴力もあり、母親自身の精神状態も苦しかった。
その後、信頼できるカウンセラーとの出会いによって、母親自身、自己肯定をすることができ、また娘が学校に行かなくてもよいと思えるようになったという語りがあった。
また夫に対しては、夫が自省するほど「家庭を顧みなかったわけではない」と語っている。娘とのかかわりについては、「親離れ・子離れ」を重視し、「(子どもを)自立させるために親はいる」という考えを持っており、娘の結婚には賛成の立場を取っていたという。
当事者である娘(30代)の語りでは、いじめについてずっと我慢して親に隠してきたこと、母親はいじめの様子に気付いていなかったこと、また小さい頃母親に「(人の)悪口を言っちゃいけない」と厳しくしつけられたため、いじめの被害を言い出しにくかったこと(悪口を言ったことになり、言ったら怒られると思った)などの出来事が明らかになった。
また父親についてはいじめについて相談しようと思ったことは「まったく」なく、理解をしてくれる人でもなく、「ただの父親、働くだけの人」というイメージを持っており、父親としての役割は果たしていない、と語られている。
現在の親との関係については、父と母に「お前のおかげで変わった」と言われることに違和感を覚えているという。
なぜなら、娘自身は不登校をきっかけとして自分自身が変わったというイメージを持っておらず、父と母が変わったといっても、自分自身のこととあまり関係がないように思われるからである。
その他、話の伏線として、娘の結婚についての夫婦の立場の違いについても言及されている。
総じて、3人の語りから不登校とひきこもりをめぐる家族の経験についてそれぞれにすこしずつ異なって解釈されている出来事と解釈が重なり合う出来事を確認でき、各自の語りの整合性と不整合性の両面をあぶりだす内容となった。
[議論内容]
・読者側に語りの整合性/不整合性が立体化されて読めるように、出来事の時系列に注意した書き方をする
・語り手に対する焦点の当て方の問題(父の語りに着目して、母・娘の語りから、父の語りの整合性/不整合性を探るのか)
→三者三様の出来事に対する解釈を見ていき、整合性/不整合性を探る
・娘の不登校経験について夫婦、親子間で解釈が異なるところに面白みがある。
ある大きな経験について家族それぞれの認識が違っていても、家族は上手くまとまっているように見える。
「(家族は)バラバラのままでもおさまりがつく」という意味で、現代の家族論としてインパクトのある内容になっているのではないか。
・娘の結婚についての反対・賛成について、父・母・娘で解釈が微妙にずれているが、たとえば反対にいたる背景(コンテクスト)は、父と母で意味が異なる。
そのコンテクストの説明がもう少しほしい。
また、父親の語りには、父親自身の危機の局面を背景として、「自己を軸に語り、そこにある種の一貫性を持たせる」という特徴が見出せる。具体的な人間関係の中で語られる自己変容の語りについては、親の会でであったMさんという男性によってもたらされているように解釈できるが、妻(あるいは子も含めた家族)との関係の中で変わったようには読みにくい
→家事をするようになったなど、妻との関係で変わった部分はある。
・親たちは娘に対し「おまえのおかげで変わった」という一方、娘の方は経済的に自立が出来ているわけではなく、変わっているわけではないということだった。
親たちは娘の不登校によって自分を解放し、夫婦関係が変わったと解釈している。
家族はこれまでとは違うと言う認識にになるのだろうか?
→妻は夫との関係に不満を持っていたらしく、その意味で関係の再構築をはたしている。
ただ、父親の変化のありようについての解釈は三者三様であり、共有できている部分とできていない部分を焦点化したい。(記録 加藤敦也)