調査資料「能登」目録 凡例と解説

「ID(資料番号)」

一つの袋に複数資料が収納されていた場合、内容によって別々の単体資料として分類し、別々の資料番号(ID)を付した場合と資料名が違うもののそのまま同一資料として扱った場合がある。後者の場合、複数の資料に同一の資料番号が付けられている。後者の場合は、調査資料整理作業の煩雑を避けるためにそのままにしたという事情があり、同一資料番号における複数資料間に関連性が認められるものとそうでないものがある。
なお、ID番号15・16は、欠番とした。その内容は、「ミシガン大学日本研究センター留学に関する英文手紙下書き」半紙並びに「『商家同族団の研究』図表に英訳をつけた自筆」半紙である。

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括弧内は、編集子による資料解説。

「原本」

備考欄における「資料形態:原本、自筆、自筆転記、コピー 他」の「原本」は、複写(コピー)、転記されたものなどに対して、もとの書物や書類の現物を指す。自前文書の作成が手書きされたものは、「自筆」とし、他の文献、資料などを転記した手書きは、「自筆転記」とする。なお、裁判記録においては、裁判記録の原本から作成された正本、副本は、この目録では、「原本」として分類されている。

「関連資料」「その他」

備考欄の「関連資料」は、能登調査に間接的にではあっても何らかの関係が認められるとみなした資料を指す。「その他」は、能登調査そのものとは無関係とした資料を指す。

資料名

「○○ファイル」は、中野卓が綴じたファイルである。

新漢字と旧漢字

資料の漢字が、旧漢字表記の場合、そのままにしてあるものと新漢字表記に改めたものがある。

数字表記

資料での数字表記については、出来るだけそのままにしたが、年月日表記などで変更したものもある。

資料形態

「集計用紙」とは市販のものを指す。「罫紙」とは、市販のタテ型あるいはヨコ型「罫紙用紙」を指す。

中野卓の能登調査

中野卓は、能登において、二つの社会調査を実施している。これら二つの調査は、九学会連合能登総合調査への参画が契機である。一つは、1952(昭和二七)年の口能登東海岸の北大吞村(現在の七尾市北大吞地区)を対象地とした「ブリ大敷網」という大規模な漁業経営の村落構造の調査である。この調査は、その後、中野個人による継続調査がなされ、『鰤網の村の四〇〇年-能登灘の社会学的研究-』(1996)へと結実する。もう一つの調査は、九学会連合能登調査の二年目、1953(昭和二八)年の同族連合的・親方子方的な織物工場の調査である。調査地は、同じく口能登で、七尾市の南方にあり、さらに南に下った羽咋市との中ほどに位置する鹿島郡能登部町(現中能登町能登部)である。この調査は、『下請工業の同族と親方子方』(1978)となる一連の研究の一つとなっている。

調査地

「能登・北大呑村」北大吞村とは、七尾市に合併する以前の行政村で、11の大字があった。その中の一つが庵村である。1954(昭和29)年3月31日七尾市に合併された。
「能登・庵村」庵村とは、旧村(幕政村)を指し、虫崎、庵(親村)、百海、白鳥の小字部落があった。
「能登・能登部町」能登部町とは、石川県鹿島郡中能登町能登部を指す。
「能登」:当該資料が、上記、「能登・庵村」「能登・北大呑村」の漁村調査、あるいは、「能登・能登部町」の織物工場調査にのみ関係するものと特定できない能登に関する資料は、調査地を「能登」と表記してある。

「庵・江泊紛争と岸・端合併」

庵村と隣村江泊には、近世以来、地先漁場に関する紛争がある。明治以降においても北大吞村の庵区(庵村)漁場である「岸ノ網」と江泊区(江泊村)漁場である「岸ノ網」とで生じた地先専用漁業権に関わる紛争が明治、大正と継続したが、ようやく、昭和五年、「岸端漁場」に対応する「岸端鰤大敷網組合」の成立により「岸・端合併」がなされた。本調査資料目録資料「岸端合併(昭和5)1」ファイル、「大正2~3年」ファイル)。

「百海紛争」

庵村の枝村、百海(どうみ)で起きた鱈網漁業権に関する紛争。直接の始まりは、漁業改革後初めての漁業免許更新申請がなされた1956(昭和三一)年のことだった。「百海定置網組合」(いわゆる「部落網」)が、その鱈網の漁業権更新申請を石川県庁水産課で手続きをするにあたって、当時の百海定置網組合長白山本家、百海町会長広瀬本家、北大吞漁業協同組合専務理事の広沢弥十郎、同書記の藤田肇の4人に委嘱した。その内の3人は、係官の指導の下、共同漁業権者全員の連名の面倒のかわりに、簡便な方法として、3人の名義で申請を済ませた。ところが、その免許がおりると、彼らはその漁業権が、組合にではなく彼ら3人、白山、藤田、広沢に免許されたのだと主張した。これを支持したグループは、弥十郎派あるいは「名義人派」と呼ばれた。これに対して、百海部落の反弥十郎派は「部落派」と呼ばれた。

「百海紛争関係書類一式」

(公判文書及び関連書類の正本、写し他)
百海紛争関係の書類がビニール袋に一式保管されていた。中には、複数の封筒があり、その中に複数の書類が入っている。内容は、裁判所作成の公判記録、証人証書、判決文等の正本、写し等である。中野らは、これらをコピーして研究資料としたものと思える。本目録で、百海紛争関係資料を「○○コピー」と表記したものの多くは、「百海紛争関係書類一式」と命名した諸資料の内の部分コピーである。

百海紛争の裁判は、第1審が「金沢地方裁判所七尾支部」において、第2審(控訴審)は「名古屋高等裁判所金沢支部」においてなされた。

「佐渡出漁と定置網技術の伝播」

『鰤網の村の四〇〇年-能登灘の社会学的研究-』では、明治の末に能登灘浦の庵ムラから佐渡へ出漁した人物がおり、それが契機で佐渡の内浦に定置網技術の伝播があったことの詳細が紹介されている。そのキー・インフォーマントは、父の佐渡出漁に連れられて佐渡へ渡った石垣博行氏である。(本調査資料目録資料「聞取りノート「石垣博行談 40,9,4」)。

九学会連合

1947(昭和二二)年6月、渋沢敬三を会長として、民族学・人類学・社会学・考古学・言語学・民間伝承の会(民俗学)の「六学会連合大会」が持たれた。それ以降、学会数も増し、四〇余年続いたが、1988(昭和六三)年5月最後の大会を開いたうえで解散した。
中野卓は、発足当初より関りがあり、共同調査には八学会連合対馬共同調査、九学会連合能登調査、九学会連合佐渡調査、九学会連合第二次奄美調査に参加している。
中野と学会連合との関りについては、中野卓「学会連合と私の研究史」(中野卓『中野卓著作集 生活史シリーズ 』)に詳しい。

(作成:中西茂行)

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