例会レポート(2016年4月)ライフストーリー研究会

「ろう理容師たちのライフストーリー」吉岡佳子(一橋大学大学院)

■質疑応答・コメント

♦調査手法

Q: 「インフォーマル・インタビュー」という語を初めて聞いた。半構造化インタビューとは異なるのか?
また、アンケートの内容および配布方法は?

A: Bernardの著作から引用。構造化はなされず、調査目的でインタビューしていることを必ずしも相手に伝えなくてもよい(私の場合は伝えた)。
アンケートの設問については、今回の内容に関する部分のみを発表した。他の設問は「自営か雇用か?」「顧客中のろう者の割合は?」など。
全ろ理連理事長の協力を得て、会合の席で配布・回収してもらった。

Comment: ライフストーリー・インタビューは基本的に非構造化。インフォーマル・インタビューという表現は、フォーマル/インフォーマルの二種類しかないような印象を与え、最近は使用しない。
また「策略」とは断りもなくデータ化するため、調査倫理に反する。例えば理容店の客に対して、インフォーマルな出会いの中で話を聞くという書き方をするのは構わないが、調査手法の一つとしては「インフォーマル・インタビュー」という項目は立てない方が良い。

Q: お母さんのお話は、お母さん、ご本人のどちらから聞いたのか?
A: ご本人から。

♦読み手

Q: どのような読み手を想定しているのか?

A: 大変悩むところ。調査協力者たちは、論文の仕上がりを楽しみに待っていてくれる。しかしろう者は手話を母語とするので、日本語のリテラシーはさほど高くはなく、博論の形式では読んでもらえないのではないか。ある程度、書き直したものを別途作成しようかと考慮中。

Comment: 中途半端な形は避けた方が良い。とりあえず、各協力者に関連する部分がわかるような形にして博論を渡してはどうか。みんなに読んでもらいたいのであれば、改めて読みやすい本の形にするなどの方法も考えられる。

♦手話からの翻訳(日本語の文章化)

Q: 手話からの翻訳について、協力者は日本語文の確認が可能なのか?また、桜井定義「個人のライフ(人生、生涯、生活、生き方)についての口述(オーラル)の物語である」に関して、手話による語りが「オーラル」と同等であるというのは分かるが、翻訳後の文をはたして「オーラル」と言えるのだろうか?また、協力者に加筆・修正してもらうプロセスも明示した方がいいのでは?

A: 協力者は、自分が語った内容なので間違いなく確認できていると思う。翻訳については、手話は自然言語の一つなので、例えば英語でのインタビューを日本語に訳して記載するのと同じように考えてほしい。

Comment (1): 露→仏→英→和 といったような過程を経る翻訳を想定し、その中の言語の一つが手話に置き換わる場合を考えると、すんなりとわかるのではないか。

Comment (2): 「個人のライフ(人生、生涯、生活、生き方)についての口述(オーラル)の物語である」という定義を行った時に、僕は、手話については全く念頭になかった。それについて批判的な記述を行うことも可能である。手話の特徴や口述との共通点・違いを書き込むことは面白いし、大事な手続きでもある。翻訳作業として、相手とのやりとり、例えば一人称として何(私、僕、俺など)を使うかを相手に尋ねて言語化することにより、その人の立場を明確にする。今回は翻訳が主要なテーマではないので(その点については別の論文にすることも可能)引きずられ過ぎることはないが、方法論としてポイントは押さえておく必要がある。

Comment(3): 私はスペイン語でインタビューを行っている。一人称はやはり「Yo」のみであるが、相手は日本語がわからないので、それをどのように翻訳するかを確認してもらうことはできない。手話の場合、そうした確認が可能であるという特殊な状況があり、それについてオーラルというコンセプトを豊かにすると捉えて考察していくことができる。

Q: ほかにも、「です・ます」と「だよね」等の使い分けがなされているが、その理由は?

A: 人間関係の親疎が理由。A、B、Cさんと私は親しい友人だが、D、E、Fさんは、調査をするにあたって紹介してもらった人たちなので、距離感が異なる。そのあたりも、「こんな感じに書きますが、どうですか?」と確認してもらった。

♦リサーチ・クエッション

Q: コミュニケーションの解明とろう者が生きる事との関係が見えてこないので、この論文から何がわかるのかが明確ではない。リサーチ・クエッションは何なのか?そのためには、なぜライフストーリー・インタビューでなくてはいけないのか?といったことがわからないため、読者としては、この論文を読んで自分がどこに連れていかれるのかが掴めない。

A: 今回の発表は、論文の一部。口話でカバーできる部分と、口話では用をなさないので他の手段(手話通訳など)を社会に向けて要請してきた部分とを明示し、コミュニケーションの全体像を浮かび上がらせることができるような構成を目指している。

♦口話教育以外のろう学校における学習体験

Q: 報告の冒頭の部分に「ろう理容師たちが、自らの学習体験をどう捉え・・・」とあり、また、徳島県立盲聾唖学校和田忠雄校長の手記には、理髪科設立の理由 (一)~(七)が挙げられている。しかし、実際には口話教育以外の学習体験については報告がなかったのは何故か?

A: 私の博論では、ろう教育全体の流れを取り上げるのではなく、口話教育とろう理容師によるコミュニケーション実践に焦点を当てる。「自らの学習体験をどう捉え・・・」ではなく「自らの口話教育での学習体験をどう捉え・・・」と書いた方が適切であった。

♦なぜライフストーリー・インタビューなのか?

Q: 「特にコミュニケーションを中心とした社会生活を掌握することを目指すため、その手法としてライフストーリー・インタビューが最も適切であると考えた」と述べられているが、この表現では、何をはっきりさせたいのか、そのためになぜライフストーリー・インタビューという手法を選んだのかが伝わってこない。知りたいという強い思いがあるのなら、具体的にそれを書くべき。

A: 知りたいのは、ろう者と手話を知らない聴者とのコミュニケーション。理容は聴者との関わりが必須となる職業。ろうの希望者が個人的に理容師を選んだのではなく、ろう学校理容科というシステムとして、全国的に多数のろう理容師を養成し、またその結果、彼らが十分に生計を立てることができたのは、なぜか?それを解明するためには、統計やアンケートといった量的データではなく、質的手法が必須である。その中でも、ライフストーリー・インタビューを用いた調査が適切であり、またやってみたいと考えた。

♦エスノグラフィーと言えるのか?

Comment(1): この研究はエスノグラフィーであると断言されているが、私にはそうは思えない。エスノグラフィーと言うのであれば、長期間にわたってフィールドに入り、そこでの状況や見聞したことを詳細に書き込んでいく必要があるが、今回の報告ではそうした記述がなされていない。ただ、「エスノグラフィック」な研究との表現は、質的調査において多用されるので、今回も使えると言えよう。エスノグラフィーと述べたいのであれば、関連研究を数多く読んで再検討し、フィールド(店舗)の様子を詳細に書き込む必要がある。

A: エスノグラフィーとエスノグラフィックの違いをきちんと掌握していなかった。

Comment(2): 現在では、エスノグラフィーの概念は多様に捉えられている。「現代のエスノグラフィー」という本に、細分化されたいろいろな方法論が紹介されているので参考にするとよい。私は修士論文でオーディエンス・エスノグラフィーの手法を用いた。文化人類学の見地から見たエスノグラフィーとは異なる面があるが、自分としては自身の定義と手法および分析について、論文の中で厚めに書き込んだつもりである。

A: フィールドについて、ろうコミュニティには地域的な意味でのフィールドは存在しないが、私はある意味では、研究を始める前からフィールドにいたのではないだろうか。

Comment (3): フィールドが地理的なものに限らないというのは、確かにの通りであり、それについても論文の中できちんと記述する必要がある。

Comment (4): ろう理容師と客とのコミュニケーションを知りたいのなら、ライフストーリー・インタビューや客への聞き取りよりも、まず基本的に現場である店舗の状況に関して、自分の見たものやそこから見えてきたものを書き込むことが必要。それが書かれていないのでわかりにくい。どのように理髪作業が行われているのか、そこでのコミュニケーションはどうなされているのか、一日に何人くらい客が来るのか、Aさんの店とCさんの店とはどう違うのか、といった事を書き込み、またそれについてインタビューを重ねることで、リアルなエスノグラフィーの要素が入った分厚い記述ができる。なぜ、そうした内容を書かないのか?

Q: インタビューの時間はどれくらいか?そうした記述は入れないのか?また、非言語コミュニケーションも視野に入れると良いのでは?リアルな光景が浮かぶように表現すると、読者としては心情的に近づくことができる。

A: インタビューは、長くて2時間。店でのインタビューでは、来客により中断して20分程度で途切れた場合もある。インタビュー内容の記述に集中していて、そうした面は書いてこなかった。

Q: 協力者たちの10代後半の話(葛藤など)や、また主要な点ではないが業者とのコミュニケーション、理容組合に入っているのかなど聞いたのか?細かく書くと、状況が浮き出てくる。

A: 今回は口話教育に焦点を当てたため、そうした面はまだ書けていていない。実際には、理容科を選んだ理由、どのような生徒が理容科に進学したか、国家試験に向けての対策と受験状況、自分の店を開店するまでの修業時代に聴者の中で苦労した話などを聞いている。また、ろう学校の先生・生徒からも話を聞いている。

♦報告者自身

Comment: ろう者のリアリティが見えてこない。報告者は、24年間という長い期間フィールドにいたことで、逆に当たり前と感じて見えなくなっている部分があるのではないか?また、論文としてまとめなくてはいけないという意識が強すぎるのでは?ライフストーリー・インタビューを用いるのだから、報告者自身が変わっていく様子なども書き込み、読者が「ああ、そうなのか」とフィールドに導かれるような、豊かな記述が欲しい。

A: たしかに、フィールドに長くいたことで、感覚が鈍っているという面はあるかもしれない。

♦【ろう学校入学】等の項目分け

Q: 項目別に並べていることで、わかりやすい反面、ぶつ切りの印象を受け面白味に欠ける。実は、私も修論で同様の書き方(【海外へ行く前】【行った後】等)をして、失敗したなと感じている。流れのある記述をすると、もっと活き活きするのでは?

A: 項目別に複数の人の語りを並べるか、各人の語りをそれぞれ追うか、どちらが読みやすい流れができるかは、自分としても迷うところ。今回は、とりあえずこの形式とした。

♦口話教育・筆談

Comment(1): 「複雑なコミュニケーションについては、口話教育は用をなさない」と簡潔にまとめているが、そこには各人のライフストーリーが活かされていない。まとめが一概に語られ過ぎている。例えば早期手話話者と後期手話話者とでは、口話教育の捉え方がおのずと異なるのではないか?その違いは、結論にも関わってくる。

Comment(2): また、漁師が筆談を拒否するとのエピソードがあったが、その時代には文字が書けない人たちが存在したのか。考察の一つに取り上げても良いのでは?

A: 漁師たちは、読み書きができないわけではない。しかし、タブレットなどとは違い、手書きの筆談は面倒な作業であり、客にはほとんどやってもらえない。自分は、店舗では筆談をしている客を見たことがない。

Q: それに関連して、22ページの写真が面白い。実際の現場では、タブレットなどのコミュニケーション・ツールは使われているのか?

A: ライフストーリー・インタビューでは出てこないが、インフォーマルに聞いた中ではそうしたツールの使用が語られている。

♦歴史的背景から焦点を絞っていく手法

Comment(1): この研究は、自分たちが聞けない話を知ることができるという意味で面白い。ただ、もっとフォーカスを絞り込んでいく形で書かれていると、ワクワクしながら読むことができる。たとえば、歴史的な視点から、江戸時代には「当堂」が存在し、音楽・針灸・高利貸しをろう者が担うという福祉施策が採られた。こうした歴史や文化の流れを述べたうえでフィールドにつなげていくと、わかりやすいし、社会学の論文として整った形となる。

Comment(2): 当堂は盲人が対象。

♦福祉的要素がない点、口話教育の全否定

Comment(1): このような研究対象にもかかわらず、福祉的要素がない点に好感を持つ。社会福祉学の視点からは、先行研究にあるように就労支援につなげるといったまとめ方になるのであろが、そうした思考が全くなく、自由奔放に書かれている。ただし、なんらかの着地点(福祉にこだわる必要はないが)は欲しい。ろう理容師たちが、なぜこうした仕事をやることができたのかを明らかにできれば価値があり、福祉の人たちからも評価されるだろう。それには、すでに言われているように、現場での一日の観察が重要。

Comment(2): また僕の専門である障害学の分野では、口話教育=絶対悪と捉えられているので、「ちょっとは役に立っている」とは言い難いのであろうことが、文面から伝わってくる。口話教育が抑圧的であったからこそ、ろう者たちは他の手段を工夫してきたと言えるのかもしれない。職場の中で手話または口話のどちらか一辺倒ではなく、多様な手段がごった煮のように用いられている状況を描ければ、面白さが見えてくる。

A: 私には、ろう理容師たちは障害者ではなく少数言語話者に見える。たとえば、米映画にでてくるポーランド移民の理容師などに近いのでは?(言語獲得の面での相違はあるが)。ただし、ろう理容師自身が自己をどう認識しているか、またろう者全体としてはどうなのかは別の問題。

♦カミソリを扱う大変な仕事

Q: カミソリを使うのは、少しでも感覚が鈍ると出来ない仕事であり、鍛錬が欠かせないと思う。コミュニケーションができないろう者に、そうした仕事が許可された経緯がわかれば興味深い。

A: その視点から考えたことはなかった。ただ、理髪・結髪は昔からろう者に適した仕事とされ、それは日本だけではなかった。

司会:残り時間が少なくなってきたので、未発言の人は一言ずつ話してください。

♦音声日本語の翻訳文のろう者による確認の可否

Q: 私には、ろうのいとこがいるため、ろう者との付き合いがある。また、日本語を教える立場から、少数言語にも関心を持つ。ろう者に書記日本語を確認してもらうのは、大変ではないか?また、早期手話話者と後期手話話者との間では、違いがあるのでは?

A: 理容師になるには国家試験があるため、ろう学校内で選考があり試験合格の見込みのない生徒は理容科に進めない。つまり、理容師はある意味ではろう者の中のエリート集団。したがって、博論を読むのは難しいかもしれないが、自分の発言を文章化したものについては、充分に読みこなすリテラシーを有すると考えている。

♦なぜ理容師に焦点を当てたのか?

Q: 生活していく上で聴者と関わる職業は他にもたくさんあると思う。あえて、理容師に興味を持ったのはなぜか?

A: 協力者たちの在学時には、ろう学校での他の専攻科は縫製、木工、地域の伝統産業など対人コミュニケーションの少ない業種であった。その中で、特に聴者との関わりが密接な職業である理容科が、多数のろう学校に設立されたことに関心を持った。

Comment: わかりました。私の専門は観光であり、現在では地域産業の職人と観光客との交流があるので、こうした疑問を持った。

♦理容店で客が普通に話しているエピソードについて

Comment: 私は外国人支援に関わっている。ろう者が二重の意味でのマイノリティ(言語+口話教育)である点に興味を持った。自分も、支援対象者(日本語の出来ない中国人)が料理店を開いたため、心配になって客として足を運んでいる。そこでは、常連の客が相手に通じていないにもかかわらず、平気でどんどん話しかけているという、ろう理容師の店と全く同じ現象がみられる。こうした場合、客と店主との間に独特のコミュニケーションが出来上がっているのでは?互いに何を求めているのかを掘り下げると面白いと思う(自分の研究も同様)。

♦手話に書記言語があるのか?

Q: いろいろなストラテジーが編み出されているのは興味深い。手話に書記言語はあるのか?

A: 手話を記録するために言語学者が作成した手段はあるが、日常使用される書記言語はない。手話話者は、手話を会話に、音声言語を書記に使用するモダリティの異なるバイリンガル。

♦身ぶりや表情について

Q: 手話話者はとても表情や身ぶりが豊かで、体全体を使って話しているというイメージがある。それを語りの中に取り入れれば、より様子が伝わるのでは?
また、Cさんのエピソードの中では、「オカアサン」と言えた事がCさんの心の中に強く残っているのだと感じた。口話教育は、単にそのきっかけかもしれない。

A: 表情について、手話は手のみで表現するのではなく、例えばyes/noクエッションは眉を上げ顎を引き気味に表すというように、顔の動きも言語構造の一部としての機能を持つ。もちろん、それとは別に、自然な感情の発露としての表情の豊かさは、音声言語話者と同様に人によって様々。ちょっと、わかりにくいかもしれないが・・・

♦家族の視点

Comment: 私は10人兄弟で、うち1人の姉が高熱により聞こえなくなったろう者。自分の中では、姉が障害者であるというのは大きかったので、今日の発表で「文化」としての捉え方には驚いた。家族としては、姉が口話で話してくれるおかげでコミュニケーションができて助かっている。ただ、姉が猛スピードの手話で生き生きと仲間と話しているのを見た時は、「これはなんなの!」と感じた。また、先天的なろうか後天的かによって結婚等社会の目が異なる。

♦共通性はどのように見出せるのか

Q: 成育歴の異なる人々のライフを、どのような形で論文化するのか?ある程度の共通性を引き出して一般化する必要があると思う。私の所属する人間科学研究科では、あまりにバラバラであると「社会学に近いじゃないか」と言われてしまう(笑)。
論文の中で、共通性と相違性をどのように扱うのか?私は、ライフストーリーにおいては、何らかの共通性(文化的など)が出てくるものと考えている。

A: 特に成育歴の異なる調査者を選んでインタビューしたわけではなく、話を聞いた結果、多様なバックグラウンドを持つ人々であるとわかった。自分としては、そこからなんらかの共通性を引き出す必要性があるとは考えていない。

♦情景が浮かぶような記述をするとよい

Comment: インタビューをビデオ撮影しているところが面白い。聴者へのインタビューにも、ビデオを使うと、表情等が残せて良いと思う。報告者と協力者との関係によって、敬語やタメ語、僕、俺などと変わる点にも興味を持った。報告者と協力者のそれぞれがどんな人(ライフ)なのか(例えば、A さんは金髪か黒髪かとか・・・)書き込んでいくと、テーマ自体には興味がなくて、たまたま手に取った読者にも楽しんで読んでもらえる論文になるだろう。

♦障害者手帳を持つ立場から

Q: 私も精神障害者手帳を持つ。同じ障害者として、ろう者はなぜ自分たちは障害者ではないと言うのか理解しがたい。

A: いや、ろう者の多くは、障害者であると自己認識していると思う。ただし中には、障害者ではないとして障害者年金の受給もしていない人もいる。そのあたりは、個々の判断。

Q: 口話教育は、なぜこれほどまでに否定的に捉えられる状況にあるのか?

A: 私が考える口話教育の最大の問題点は、手話を否定するところだと思う。人は誰も自分がもっとも自然に使える言語を使用する権利があるはず。それを禁止するのは、ある意味では、植民地における言語施策よりも過酷。ただ、先ほども話題になったように、口話教育については踏絵の様な面があり、語るのは難しい。個人的には、読話はある程度できた方が良いのではと思っている。しかし、判断の主体はあくまでもろう者自身。

♦この研究のプロブレムは何か?

Comment: コミュニケーションの解明が目的と述べられているが、解明だけでは、「はい、やりました」で終わってしまい、好奇心が満たされるだけ。いわばジャーナリスティックなルポに過ぎない。社会学の研究である以上、現代社会をろう理容師としてどう生きているのか、解明の先に何があるのかを明確に目指す必要がある。自分自身の経験を踏まえて言えることだが、プロブレムがあってこその博論である。今回の発表では、それが言葉として出されていない。明示があればコメントしやすくなるし、他人の意見に引きずられることもないだろう。

A: 私のやっているのは(たぶん)社会学ではない。それはさておき、今回の論文でろう者のコミュニケーションが解明できるとは考えていない。一つの手段の呈示。今後、別のフィールドや、また今回のフィールドの他の面も見ていきたいと思う。

♦コメント(総括)

いろいろな意味で面白く聞いた。しかし、最後のまとめ方が気になる。「口話教育は植民地主義と批判されているが、意外にコミュニケーションに役立っている面もありますよ」という、単純な結論で終わっているように見えるのは問題である。さらに、アンケートがそうした単純化を加速させる結果になってしまっている。

まずは、ろう理容師によるコミュニケーション実態を解明することが大きなテーマであり、そのためには、口話にこだわらず、各人のコミュニケーションのプロセスを押さえ、どこのポイントでどんな手段を用いているかを、ライフストーリーとの関わりの中で、詳細に見ていくことが必要。口話教育の問題点や効果については、その後で別に論じればよい。

早急な結論に飛びつかないで、せっかくの大事なデータをしっかり活かせるような丁寧な作業を行うべきであり、まとめ方にも工夫が必要である。

(文責:吉岡)