(お知らせ)例会レポート12月 合評会:柴崎美穂著『中途盲ろう者のコミュニケーション変容』

合評会:柴崎美穂著『中途盲ろう者のコミュニケーション変容 ―人生の途上で『光り』と『音』を失っていった人たちとの語り』

評者:矢吹康夫(立教大学)・星加良司(東京大学)
日時: 2017年12月15日
場所:立教大学
記録:柴崎美穂

Ⅰ 評論

評論1 矢吹康夫 <主に調査・研究方法についてのコメント>
1 記述方法と「社会の縮図としての社会調査」の可能性
■「発言はできるかぎり実際の発言の通りに記述したが、読みやすさを考慮し、意味に影響しないと思われる音の繰り返しなどは適宜省略した」(p.55)となっているが、それでもまだ読みにくい。分析や考察、解釈において特に意味をもたないならば、もっと大胆に削除してもよかったのではないか。
■構成や小見出しが味気ない。AさんとCさんのライフストーリーを提示する際に、あえて10歳代、20歳代、30歳代・・・という区切り方をしたのはなぜか?また、Aさんは40代の記述が長く、ボリュームに差がある。何をその人が重視しているのかをふまえた構成でもよかったのではないか。
■一方で、おそらく質問が聞き取れずにたびたび「ん?」と聞き返すAさんや、質問を最後まで聞かずに先取りして答え始めるCさんとのやりとりなどは、彼女たちの日常のコミュニケーションでも起きていることではないだろうか。こうしたやりとり、つまりインタビューにおける相互行為(ライフストーリーの「語り方」)を分析・考察することで、「社会の縮図としての社会調査」(西倉 2015)を描くこともできたのかもしれない。

2 研究方法の斬新さと著者自身の背景化
■3人(A, B, C)のライフストーリーを別の3人(D, E, F)と語り合うなかで共同解釈を試み、さらにそれらを福島智氏とも共同解釈するという点がこの研究の斬新な点である。それぞれの盲ろう者たちが自身の経験や考えを参照しながら、多様な解釈を示し、Aさん、Bさん、Cさんのライフストーリーへの著者の解釈が語り合いを通して更新されていく。第6・7章での共同解釈の後で、それをふまえて第3?5章を書き直すということはしなかったのだろうか?あるいはその欲求に駆られなかったのだろうか?
事後的にライフストーリーを確認した際に、Cさんが著者の表現に対して異議を唱えたことが注記されているが(p.214・注16)、このほかに調査協力者からどのようなリアクションがあったのか? 解釈に対する賛意や反論などはなかったのだろうか?
■それぞれに相違点はありつつも、共感ベースで展開する共同解釈によって、当事者のリアリティに寄り添った作品へと昇華されていったことが本書の研究方法の優れた特徴ではあるが、その反面、非当事者であり専門職でもある他者としての著者自身の解釈が禁欲されているようにも思える。「推測できる」「可能性がある」といった表現を多用しており、断定してもよさそうな箇所でさえ著者がうしろに退いている印象を受ける。
■第7章で福島さんにおいしいところをゴソッともっていかれた感じがする。

3 著者自身の変容過程/読者が感情移入する対象
■2011年10月7日のライフストーリー研究会での柴崎発表「中途盲ろう者のライフストーリーにみる再生の契機」では、「落ち込んでいる」盲ろう者が「元気を取り戻していく=再生」の過程を明らかにし、どのような支援のあり方が可能か新たな知見を提出したい旨の柴崎の研究目的が示されていた。この時と比べ、本書では調査者である著者が明らかに変容しているが、著者の変容過程が描かれていない。
データの記述方法の水準では、聞き手である著者も頻繁に登場し「いかに語られたか」が示されている。が、数年におよぶ調査プロセスのなかで、著者がどのように変容していったのかが記述されているようで見えてこない。
■冒頭で研究のきっかけになった「ある出会い」が描かれ、専門職としてある種パターナリスティックに「彼女」のことを見ていたかもしれないというエピソードが披露されている(p.14)。それが最後のあとがきでは、いや実はそうではなかったのではないかと別様の解釈が示されている(p.334)。しかし、そこにいたるまでの著者自身の変容過程は第3?8章からはあまり明確には読み取れない。
A、B、Cさんの語りを私は最初このように解釈した→D、E、F、福島さんとの語り合いのなかでその解釈が更新された→結論としてこのような知見が明らかになった、という一連のステップは明示されている。だが、ほかでもない著者が最初にそのように解釈したのはなぜか、あまり説明されていない。そう解釈するにいたった著者自身の立場や背景や調査者・専門職・非当事者としての「構え」を先に共有していれば、それが語り合いをとおしてくつがえされていくプロセスを読者も追体験しやすいのではないだろうか。
おそらく盲ろう者に接する機会がほとんどないだろう多くの読者にとっては、感情移入する対象は著者だと思う。そのようにして著者自身の変容過程を追体験できれば、たとえば、どのようなニーズがあるのか当事者自身もよくわからないから単に手段・方法を整えればいいというわけではないとか、ついつい「もっと積極的に」なんて言ってしまいがちだけとそれはとても的外れなアドバイスであるとか、悪気はなくても存在を否定されたように感じられることなどを、より説得的に読者に対して自省・喚起させられるかもしれない。

参考文献
西倉実季, 2015,「なぜ『語り方』を記述するのか??読者層とライフストーリー研究を発表する意義に注目して」桜井厚・石川良子編『ライフストーリー研究に何ができるか??対話的構築主義の批判的継承』新曜社.

評論2 星加良司 <方法論、概念整理、ディスアビリティー・スタディーズとの共通モチーフ等>

本書は、(1)これまで十分な研究蓄積のなかった盲ろう者の困難経験について、分厚い語りのデータを用いて重層的かつ分析的に明らかにしていること、(2)それを通じて、人間のコミュニケーション現象を理解する上で重要な普遍的要素として「コミュニケーションの定位」という概念を析出していること、(3)学術サークルのみならず、盲ろう者の理解や支援に関心を持つ読者に対して有益な視点と知識を提供していること、等においてきわめて意義深い内容を持っている。その上で、さらに踏み込んで以下の点について著者の意見をききたい。

1 「他の盲ろう当事者と筆者との語り合いによる共同解釈」という方法について
■盲ろう当事者との語り合いによる共同解釈という方法をとったライフストーリー研究を行っている。しかし、見方によっては、一般的な「共同研究」、つまり、著者、D、E、Fさんと福島さんが共同主体で、A、B、Cさんが調査協力者であり、最終的な解釈は著者が行っている、ともいえる。研究会で発表したり指導教員に指導を受けたりすることも共同解釈といえるが、通常はそういう場合のプロセスは見えない。この研究では、それも1つのデータとして用いている点で、通常の共同研究とは異なる。この方法論をとることによって、通常の共同研究では見えないことが見えるのかどうか。認識利得は何なのか。
■もともとの研究目的と研究方法とのかみ合わせはどうなのか。「その人が時間的連続性のある人生の中で『今、何をどのように経験しているのか』を想像し理解」する(1.1)という動機や、「中途盲ろう者のコミュニケーションの様相が変化していく過程を、盲ろう者の主観的経験に着目して理解すること、およびそれが盲ろう者の人生に与える影響を明らかにすること」(1.5)という目的に対して、ある時点で全体を振り返ってまとまりをもったストーリーとして語り直すという研究手法は、質的に違うのではないか。
主観的経験に着目するというのは、A、B、Cさんのライフストーリーについて、その人自身が経験をどのように理解し意味づけているのかということをその人の主観的経験に着目し理解するということかと思う。しかし、D、E、F、福島さんとの共同解釈で経験をつけ加えられている点で、A、B、Cさんの主観的経験と距離ができてしまうのではないか。
■主題はA、B、Cさんのライフストーリーであるが、更新されていった解釈について、A、B、Cさんはどの程度納得されていたのか。「第3ステップ」のあとそれを確認してもう一回引き戻すというプロセスがあったのかどうか。

2 「(中途)盲ろう」という現象の特有性

■「盲ろう」という概念が、単に2つ重なっているのではないと位置付けているのだとすれば、他の「重複障害」や「複合差別」との類似性と差異は何か。盲とろうが重なることによって、質的に差異があるのか。
■「中途」という要素が対象設定に含まれている。第3章から5章の語りでは、「喪失体験」という側面が語りの中で強調されているが、最後のほうでは、変容というよりは、盲ろうという状態がどうなのかという説明で埋め尽くされている。中途という要素が全体の議論でどのくらいきいているか。

3 「コミュニケーションの定位」の位置づけ
■「コミュニケーション」「コミュニケーションの定位」「感覚・言語的情報の文脈」の3つが、どのような段階を経て生じるものであると整理しているのか。
★「…通訳・介助者の存在により『コミュニケーションの定位』が可能になり、そこで生じるコミュニケーション場面で『感覚・言語的情報の文脈』を得ることができ、そのことが盲ろう者の豊かなコミュニケーションを実現したという関連である。『コミュニケーションの定位』とは、特定のコミュニケーション場面における文脈の理解よりもプリミティブな概念であり、コミュニケーション関係、つまり『つながり』を下支えする基盤といえるものである。コミュニケーション場面が始まる前段階として『コミュニケーションの定位』があるのである」(8.1)
この記述では、最初に「コミュニケーションの定位」があり、つぎに「コミュニケーション」があり、そこで「感覚・言語的情報の文脈」があるとされている。
★「…周囲の状況や人々同士の関係性を把握し、その中での自分の位置づけを行うことについて、筆者は『コミュニケーションの定位』と呼ぶことを提案する。『コミュニケーションの定位』とは、コミュニケーション行為がなされている、あるいはこれからなされる場面において、ある個人がその場のコミュニケーション行為にかかわるさまざまな情報を把握することによって、コミュニケーションの担い手としてのみずからの立場や役割を同定することを意味する。ここでのコミュニケーション行為にかかわる情報には、その場を構成するコミュニケーションの担い手やその担い手同士の関係性に関する情報、その場の物理的・心理的・文脈的情報、背景的・外部的情報など、種々のものが含まれる」(8.1)
この記述では、「コミュニケーションの定位」と「コミュニケーション」はどちらが先にあるのかがわからなくなる。また、「感覚・言語的情報の文脈」の理解をすることによってはじめてコミュニケーションの定位ができるというようにも読める。
★「本書で用いる『コミュニケーション』とは、『単なる意味の伝達(受信と発信)にかぎらず、意味が生成され変化する相互作用における感情や思考のやりとり全般を含めること』、また、『言語的手段にかぎらず他のさまざまなチャネルも介したものであること』を前提としてとらえることとする」(1.3)
この記述のようにコミュニケーションを広い意味で用いるのであれば、誰かと誰かが居合わせる場面ではなんらかのコミュニケーションが始まっているともいえる。コミュニケーションが生じていない場面でコミュニケーションの定位が可能になるのかという疑問がある。コミュニケーションという言葉の射程を含め、コミュニケーションの定位がどこに向かっているのかがわかりづらい。

4 「存在の承認」のための支援
■コミュニケーションの定位ができない状態におかれることが存在を否定されることであり、そこをどう支援していくかを第8章で示唆している。「気づかう人」がいないと存在が承認されず、コミュニケーションの定位ができない、まずその場に誰がいるのかを伝えないとコミュニケーションできない、盲ろう者と居合わせる個々の場面でそれをしなければ存在を承認したことにならす、それをするのが気づかう人だと述べている。
★「周囲の人が盲ろう者の存在を承認し、『気づかう』(たとえば自分がここにいる、近くに誰がいるといったことを伝える)ことによって、盲ろう者は『承認されている』ことを知る。また、「承認されている」ことによって「コミュニケーションの定位」が可能となり、コミュニケーションの担い手として能動的にふるまうことができる」(8.3)
★「…もしある人が盲ろう者の存在を『承認している』とすれば、その人は盲ろう者のおかれた状況を察知し、盲ろう者が『コミュニケーションの定位』を行えるような行動に出るはずである」(8.2)
しかし、8.3で、実際にA、D、Fさんに気づかう人がいた、と書かれているのは、その場で何をしているかではなく、社会とつながるための背中を押した人、といったことである。
★「Aさんの場合は繰り返し電話をかけてきて点字の勉強会に誘ったPbさんの存在、Dさんの場合は眼科受診のために必要な環境を調整したPp医師の存在、Fさんの場合は毎日来て指点字を根気良く教えたPqさんの存在」(8.3)
これらは個々の場面の「気づかう」人と位相が異なるが、そこをどう考えるか。
■支援システムに関する示唆の妥当性
個別の場面で気遣う人を社会に広げるということであれば、いろいろなところで人材を育てるといったことが必要で、アウトリーチ的に盲ろう者を引っ張り出すだけでなく人を育てることが必要、ということを示唆しているのか。

5 本書を「ディスアビリティに関する研究」として読むことの妥当性
■インペアメント(やそれに由来するADLの低下)でもなく、異なる身体による世界認知についての現象学的な分析でもなく、盲ろう者が経験するディスアビリティに焦点を当てて語りを分析している。困難経験にフォーカスすることはディスアビリティ・スタディーズではなじみがある。しかし、著者が動機づけたこと、その人がそのときに何を経験していたかということとどうつながるか。盲ろう者が直面する状況の否定性をどこまで所与のものとして研究が成り立っているのか。「『何かに困っている』状態で『改善すべき』ものであると断定的にとらえ」ていたことの反省(1.1)とどうつながるか。

6 専門職としてのまなざしへのフィードバック
■「要支援」という前提を相対化したその先に、今の専門職としての著者にどのようにフィードバックされているか。専門職は支援を必要とする人がいないと成立しないという面もある。何らかの働きかけによって状況が改善することが必要な人を相手とするというフレームは簡単には変わらないと思う。「不公平な条件のなかで生きることを強いられている」という「理不尽な状況」(あとがき)への働きかけということと、個別の相談に応じてその人の問題状況を解決しようとすることがダイレクトに結びつくかはわからないが、介入的な思考があるのだという気がする。実践の中でどう反映しているのか。

Ⅱ 著者リプライ

矢吹さんのコメントへのリプライ
1 記述方法と「社会の縮図としての社会調査」の可能性

■実際には、これでもかなり大胆に削って記述している。言いよどみなどもできるかぎり記述したのは、盲ろう者とのコミュニケーションの場面を少しでもリアルに伝えたいという意図があってのことだった。人によっては短いやりとりにも長い時間がかかる場合があり、そうした時間の流れを示したいと考えた。もっとも、1音ずつ伝えるようなやりとりまでは記述していない。
■構成をあえて無機質ともとれる年代順に区切ったのは、一人ひとりの人生を時間軸にのせて記述したいと考えてのことだった。時期によって語りのボリュームに差があること自体にも意味があると考えていたが、十分に分析に含めることができていない。
■せっかくやりとりをできるだけリアルに記述したにもかかわらず、インタビューにおける相互行為の分析・考察が足りなかったといえる。今後の課題としたい。

2 研究方法の斬新さと著者自身の背景化
■D、E、Fさん、福島氏との共同解釈の後にも、第3章から5章までの文章の推敲は重ねており、そのときすでに著者自身が、最初にA、B、Cさんのライフストーリーを記述したときの自分とは変わってしまっていたのは事実である。しかし、その時点で第3章から第5章までの記述を塗り替えてしまうと、タイムマシンで行き来するような複雑な回路にはまってしまうため、共同解釈後の記述はできるだけ第6章、第7章にもっていくことにした。前の章を読み返すときの自分がすでに以前の自分とは違うという事態は、もやもやとした整理のつきにくいものであったが、今思えばそれこそが著者の狙いだったはずなのだ。そして、著者だけでなく、D、E、Fさんが自らの経験を引き出して語るときにも、A、B、Cさんのライフストーリーを読む前と後、著者と語り合う前と後では異なっており、それは福島氏にもいえることである。この過程を流動的かつ重層的な解釈と考えていたのであるが、結局記述しえたのは比較的単純なものになってしまったかもしれない。
■調査協力者からのリアクションは、あまり出されなかった。出されなかった理由は考えていなかったが、賛意や反論はなかったかと問われると、反論しにくい空気があったのだろうか、と考えてしまった。どのように思われたかを聞くために、直接あるいは間接的に再度インタビューしたら、何が語られただろうか、と今思う。

3 著者自身の変容過程/読者が感情移入する対象
■著者は、共同解釈により解釈が変化するということは意識していたが、著者自身の変容過程ということを、これまでさほど意識していなかった。今回、矢吹さんに2011年の研究会報告の抜粋を示され、たしかにこのときと本書執筆時の自分は異なっていることにあらためて気づいた。矢吹さんの指摘のように、もし読者が著者に感情移入するとすれば、著者の当初の想定がくつがえされていくプロセスを明示することで、より説得力をもってインパクトのある結論が導けたかもしれない。
■今回の矢吹さんの数々の指摘に通底するのは、せっかく3層のステップという方法をとったのだから、そこから生じた流動的、重層的な解釈に踏み込み、著者の変容過程をもっと前面に出していくことで、読者にも自省を呼び起こすような力強いものにできたのではないか、せっかく語り手のいいよどみや聞き手のあいづちなども記述したのだから、それを分析することで著者の変容過程を示すことができたのではないか(示すとよいのではないか)、という建設的な提案であると受け止めている。
■ライフストーリーを記述する箇所で著者自身を「私」と記していることは、いわば著者を主体化して記述するという意思表示であった。にもかかわらず、著者自身が後ろに退いていたことは、今回用いた方法をいかしきれていなかった結果であると認めざるを得ない。

星加さんのコメントへのリプライ
1 「他の盲ろう当事者と筆者との語り合いによる共同解釈」という方法について

■たしかに、調査者が単独で解釈するという研究方法をとった場合でも、執筆の過程で第三者に読んでもらい意見を聞く、あるいは研究会で意見をもらう、指導教員に指導を受けるといったことはあるし、むしろないほうが珍しい。しかし、本書では、「他の盲ろう当事者と語り合う」ということ自体を研究方法として提示し、表に出すことにした。研究を始めた当初からこの方法を計画していたわけではなく、A、B、Cさんのライフストーリーを解釈する過程で、こうした方法のほうが目的に合うと考えたのである。その理由は、「語り合いによる共同解釈」の過程での相互作用も解釈の材料に加えたいというものであった。しかし、矢吹さんの指摘にもあったように、相互作用も含めて解釈するのであれば、著者の変容過程も当然より前面に出てくるはずであり、その意味では「この方法をとったことによる認識利得」は不足していたと考える。
■A、B、Cさんの語りを著者が単独で解釈するよりも、3つのステップをとることで多角的にとらえることができると考えた。また、本書の目的で記した「盲ろう者の主観的経験に着目して理解する」ことは、方法の第1ステップで協力を得たA、B、Cさんだけの主観的経験ということとはとらえておらず、D、E、Fさん、あるいは福島さんの主観的経験が付け加わることを想定している。A、B、Cさんのライフストーリーを最初の手がかりとして、盲ろう者の主観的経験に着目して理解するために必要な観点を見出すことが目的であったといえる。

2 「盲ろう」という現象の特有性
■他の複合障害との差異について本書では論じていない。視覚から得る情報が不足して聴覚で補う、聴覚から得る情報が不足して視覚で補うという関係がくずれてしまうこと、いずれかが不足するだけでもコミュニケーションの定位に一定の困難が生じるが、それが重なることにより自力では補いきれなくなることに特有性があると考える。
■たしかに第8章では「中途」という要素に関する議論が薄れている。変容していくことで複雑さが加わることはある程度論じたつもりであるが、主観的経験の変容を論じることは今後の課題としたい。

3 「コミュニケーションの定位」の位置づけ
■「コミュニケーション」「コミュニケーションの定位」「感覚・言語的情報の文脈」は、一定の順で成立する関係にあるとはとらえておらず、「コミュニケーションの定位」が背面にあって前面の「コミュニケーション」を下支えすると考えている。「感覚・言語的情報の文脈」は「コミュニケーションの定位」のために不可欠なものと考えている。ここでの記述は整理しなおす余地があると考えている。
■本書での「コミュニケーション」という語のとらえ方をする場合、見えて聞こえていれば、誰かと誰かが居合わせる場面でなんらかのコミュニケーションが始まっているともいえる。しかし、「盲ろう」であることにより、多くの場合、「誰かと誰かが居合わせているかどうか」もわからなくなるため、それだけでは相互作用が生じない。

4 「存在の承認」のための支援
■「気づかう」ことについて、著者の趣旨を星加さんが明確に解説してくださっている。ご指摘のとおり、8.3で「実際に気づかう人がいた」例として挙げているのは、位相の異なる存在といえる。
■「気づかう」人を社会に広げることがどうすればできるのかについては、共同解釈の過程でも話題にのぼったが、本書では具体的な提案にはいたっていない。

5 本書を「ディスアビリティに関する研究」として読むことの妥当性
■困難を所与のものとして「改善すべき」ものと断定的にとらえるのではなく、まず主観的経験を理解する素地をつくる(他者の主観的経験をまるごと理解することは不可能にしても)ための研究を目指したのが本書である。盲ろう者自身が語る経験の中からコミュニケーションにおける困難状況が現れており、その構造を解釈した。

6 専門職としてのまなざしへのフィードバック
■「病院などで言われても受け入れられないと思います」というDさんの語りにも現れるような、「要支援」を前提とすることの抑圧性を表面化することに一定の意味があると考えている。支援を必要とする人と専門職、というフレームに身を置いたとしても、この抑圧性を認識しているのといないのとでは、態度に違いが出るのではないかと考えている。

Ⅲ その他のディスカッション

【質問】
■依頼文で、語ってもらいたい内容を事前に協力者に伝えていたようだが、すらすらと語っていただけたか?

A 当初、依頼文は難しくてわからないという反応はあった。しだいにリラックスした状態になった。

■協力者は自分の体験を経験として語る準備のできていた様子だったか?自分の経験を語る機会が日頃からあったか?

A インタビューを重ねることによって、自分で前回の語りを振り返って語り直すといったことはみられた。日頃から語る機会はない方もいたが、協力者が次のインタビューに備えて語ろうと思うことを用意していたこともあった。

■A,B、Bさんは、自分のライフストーリーが他の盲ろう者に読まれることを知っていたか?あとから解釈することへの権力性はないのかと気になった。

A インタビュー当初は、この方法をとることは決まっていなかったため、あとからお願いをした。

■本書が著者の仕事や人生にどのように還元されているか?

A 課題を残しつつ出版したが、出版することで、盲ろうのことを知ってもらいたいという思いは少し達成したと考えている。困難状況にのみスポットを当てようとする目線を変えるという点で、自分自身の生き方に影響を与えていると思っている。しかし、本書の中でそこまでの分析・考察を行っておらず、今後の課題としたいと考えている。

【意見・感想】
■協力者3名について他のライフストーリーが6名のライフストーリーになったという印象をもった。

■方法論の位置づけをもっと書き込むと良かったのではないか。

■このデータで、著者自身を振り返って再解釈し直すといったことも考えられるのではないか。

■触手話をコミュニケーション方法とする人も分析してほしかった。ろうベースで、手話を身に着けたあと接近手話になり、触手話に変化する、といった人もいるので。