例会レポート(1月) ライフストーリー研究会

スタッズ・ターケル(1912-2008)の作品の意義について

栗木千恵子

日時:2016年1月26日(火)18:30‾21:00
場所:立教大学

(以下、報告者 栗木さんによるまとめです)

今回の発表はアメリカ合衆国のジャーナリストでオーラルヒストリアンとしても名高いスタッズ・ターケル氏の作品を取り上げ、その意義を主としてオーラル・ヒストリー及びジ ャーナリズムの観点から論考することを目的としたものです。またインタビューの名手としても名高い彼の手法についても報告しました。以下、事実関係の補足に続き議論のまとめを記載します。

今回取り上げたターケルの作品初版出版年とタイトル

Hard Times: An Oral History of the Great Depression (1970) ISBN0-394-42774-2『大恐慌!』作品社 2010年
Working: People Talk About What They Do All Day and How They Feel About What They Do (1974). ISBN 0394478843
『仕事!』 晶文社 1983年
American Dreams: Lost and Found (1983)アメリカン・ドリーム 白水社 1990年
The Good War (1984) ISBN 0-394-53103-5 1985年度ピュリッツアー賞受賞『「よい戦争」』晶文社 1985年
Chicago (1986) ISBN 5-551-54568-7
Race: What Blacks and Whites Think and Feel About the American Obsession (1992). ISBN 978-1-56584-000-3『人種問題!』晶文社 1995年

質問への補足:この本の序文にある黒人少年エメット・ティル少年(惨殺当時14歳)の事件は1954年にミシシッピ州の小さな町モーニィーで起き、公民権運動に大きな影響を与えた。白人男性二人は無罪となったが、のちに有罪が確定したことを付記します。

ターケルのインタビューの手法と作品化

議論は多岐に及んだが、①ターケルのインタビューの手法と作品化 ②ターケルがインタビューの目的として挙げた「現実」「事実」と「真実」について ③客観と主観について絞り込んで報告したい。まず①について、「飽和」との兼ね合いで、何人のインタビューが必要か、1回のインタビューの時間などの質問があった。
必要な人数などは書き手やテーマによって変わってくるが、自分の場合は、まとまった作品(単行本)では百名以上をインタビューした。当初から百名を目指したのではなく心底から納得するには最低でも百名のインタビューが必要であったということでご理解願いたい。
インタビューの時間については相手の都合もあり、1回で終わらなければ再度のインタビューが必要な場合もある。答えにならないかもしれないが、ケースバイケースで柔軟性が求められる。そのためにも早い段階で信頼関係を構築することが大切と考える。
最初のインタビューから時間が経っての場合はかなりの時間(年数)を経て初めて到達する境地ともいうべき対象者の心境を感じる。言葉遊びのようだが、年月には体験を熟成させ体験者を成熟させる力があるのではと考える。
その最適な事例はターケルの『人種問題!』プロローグに掲載されている前述のティル少年の母親の発言である。

作品化について、平均60頁のトランスクリプトを6ページに縮め、それをまた書き直すというターケルの手法を紹介したところ、編集と主観の関についての質問があった。客観及び主観は抽象的な概念であり、議論するには言葉の定義の確認を十分する必要があるが、新聞記事やノンフィクションの場合であるが、自分は編集の段階では主観という概念は念頭になく、テーマや全体の構成
に沿って、取捨選択をするが、その際最も重視している基準は事実を正確に伝えているか、である。
以上は自分の場合であり、ジャーナリストであったターケルも同様で、インタビューの目的は現実(real reality)を掴む、その上で事実を丹念に積み重ねることで思い込みやラべリング(レッテル貼り)都市伝説を暴き、剥がす事ができると語っていたことから間違いないと考える。

今回は時間の制約で言及できなかったが、アメリカのジャーナリズムの主観を極力排する客観主義(事実のみを書け)は大変厳しく、些細なミスでも首が飛ぶほどである。しかしターケルの採った手法(発言者の発言を掲載)は極力主観を排し、事実を伝える最適な形式であると考える。
編集者から持ち込まれた企画を選ぶ基準については、ターケルは自分がピンとこない企画にはイエスと言わなかったと考えられる。彼の基準は彼が残した作品と彼がシカゴで語った「普通の人々の普通でないとてつもないストーリーに非常に感銘を受ける。誰でも詩人である」がヒントになると考える。
もしターケルがインタビューして作品に収録されなければ、ある意味存在しなかったことになってしまう事実や人々の体験をターケルは丹念に掬い取り、もしかしたら本人以上に見事に言語化した。オーラル・ヒストリーとしての価値はもちろんのこと人間性についても読者に多くのことを伝えてくれる示唆に富んだ内容で、ターケルの作品の意義はこの点にあると考える。

ターケルのインタビューの目的は、事実の解明とそれを伝えることであり、前述したとおり「事実」を丹念に積み重ねることで「現実」が判明し、ステレオタイプやラベリング(レッテル貼り)、神話や都市伝説などを暴くことができることをターケルは立証した。
「真実」については、ターケルの言葉を借りて、「相手の内面に踏み込んで」こそ得られるものではないか、と自分は解釈している。著者が顔を出さないのはフェアではないという意見もあるが、作品中には極力顔を出さないようにしているターケルは、完璧な客観性は理念の産物であり書き手が顔を出さない方がより客観的に事実を伝えることができると考えていた節がある。だがターケルは長文の序文で自身の思いを綴っていて、序文には彼の発見した「真実」が込められているように感じている。

最後に再びターケルの作品の意義についてであるが、Hard Times(大恐慌!)というオーラル・ヒストリー作品も刊行当初は(一般化がなされていない)と歴史家たちから批判を浴びたが、この作品でターケルは一般化を目的とせず人々の記憶を書いたと序文の冒頭に書いている。
自分は大恐慌を生き延びた人々たち(体験者たち)の証言からしか伝えきれないものがあるのではないかと考える。作品化により多くの読者が大恐慌が当時の個々人に与えた影響について知ることとなり、たしかに「辛い時代」に共通する体験は本書の随所に見られるが、ターケルの作品はこうした体験の一般化を目指したのではなく、個別の体験を数多く収録することで全体像を描こうとしたと考えている。

そしてこの彼の手法はアメリカのジャーナリズムの伝統に則り、判断を読者に委ねたのではないかと考えるものである。時間の制約で言及できなかったがその根拠はターケルは抽象化されれば現実から離れてしまうとシカゴで何度も語っていた。
彼のこの作品 には、オーラル・ヒストリーを伝統的な歴史学という領域だけに閉じ込めず、作品化によりその領域を乗り越えた(押し広げた)という意義があると考える。
また一般読者に入手しやすい単行本として刊行されたことで、辛い時代(大恐慌の原題)についての理解が広まったのではないかと考える。

アメリカ合衆国のオーラル・ヒストリー、ライフストーリー研究の特徴はオーラル・ヒストリーを政策の過程を解明するエリート・オーラルと個人に力点を置くパーソナル・オーラル(個人史)とに大別した点であり(コロンビア・メソッド)、後者とライフストーリーとは共通する点が多いと考える。最近では後者の比重が高まっている。
アメリカのジャーナリズムは客観性を追求するあまり、それだけでは伝えきれないものがあるということに、ジャーナリストでもあったターケルの作品と手法はジャーナリズムに少なからぬ影響を与えたのではないかと考える。
もともと実証主義的であったアメリカ のジャーナリズムは、取材対象の生の言葉(ダイレクト・クオート)を記事 に盛り込む場合が多い。時には見出しにもなる。その最も知られた例は「嘘だと言ってよ、ジョー」法に触れたアメリカのプロ野球選手に少年ファンが直接叫んだとされることばである。
ターケルの作品はインタビュー集であり、すべてがダイレクト・クオートで成立していると言っても過言ではない。その意味で
ジャーナリズムとオーラル・ヒスト リーをつなぐ意義を果たしたと考えられる。ターケル以降ジャーナリストがオーラル・ヒストリー作品を相次いで出版したこともターケルの作品がその素地を形成するのにある役割を果たしたのではないかと考えるものである。

客観性重視に反旗を翻したニュー・ジャーナリズムは「まるで見てきたように書く」と伝統的なジャーナリスト達から批判を浴びたが、やがて一つの流派として確立された。「語り」を重視するターケルの手法は、最近当事者の「語り」を積極的に取り入れるナラティブ・ジャーナリズムの手法の先駆けと位置付けられると考えている。
この手法は最近ではハーバード大学に研究部会が設立された。「語り」はオーラル・ ヒストリーに不可欠であり、この意味でもターケルの作品の果たした意義(オーラル・ヒストリー、ライフストーリーとジャーナリズムの接続)は決して小さくないと考えるものである。

最後にアカデミックな学者・研究者とジャーナリスト、両者の領域は異なるものの、アプローチや基本的な考え方などは相違より共通するものの方が大きいという認識を共有できたのではないかと考えます。