目次
●岩手県北上市和賀町における戦争の記憶とその継承―おなごたちの千三忌を中心に
●朝鮮学校をめぐる非「国民」的語り──「高校無償化」除外に対する朝鮮学校卒業生へのインタビューからの考察
●日常文化としての「青森ねぶた」~歴史と記憶のアーカイブ・プロジェクト(公益財団法人青森学術文化振興財団助成事業)
●震災直後の住民の生活戦略--陸前高田市小友町新田地区の生活用水の事例から
●戦後のナラティブ・ターンから眺めるアイヌの諸運動と和人によるアイヌ研究の相克
●一人でアルビノの多様性を語る:ライフストーリー・インタビューとして読み解く

岩手県北上市和賀町における戦争の記憶とその継承―おなごたちの千三忌を中心に

柳原 恵(2014年2月25日)

[報告概要]
柳原さんのご報告は、博士論文執筆を前提に、まず研究概要について説明され、その後、ライフストーリー法を用いた調査・研究の中から抜粋してご報告された。

報告では、調査地和賀町の概況が語られ、その歴史を背景に千三忌という戦争体験報告運動が起こり、様々な解釈を受けつつ今日も続いていることが語られた。
和賀町は北上盆地中央に位置し、伊達藩と南部藩の藩境の町である。
この地は「東北の都市化されない純朴な農民こそ強い軍隊の供給源」だったという赤澤史朗の指摘のごとく、多くの農民兵士を輩出し、同時に多くの戦死者が出た土地でもある。背景には農民の貧困さがあり、閉鎖的社会システムの下で国家の統治としての戦争参加を予備なくされたことから、東北を「化外の民」「エミシ」として支配者の目で見る中央からの「征服史観」に対する反発が強い気風があると指摘する。

こうした戦争と背中合わせの生活が、戦争体験を風化させない活動として結実し、多くの女性活動家を生んでいる。
小原麗子(1915~)や石川純子(1942-2008)である。
小原は、和賀郡に生まれ中学卒業後進学を希望したが、周囲の大人のジェンダー観によって勧められる縁談を断り、「自活」を求めて静岡県沼津市に女中奉公に出る。
翌年帰郷すると農協に勤めながら町の生活記録活動を牽引する。小原が主催する「麗ら舎読書会」が始めた活動は和賀町出身の戦没兵士である高橋千三(1921-1944)と母高橋セキ(1892-1966)の年忌である。

セキは夫に死別し、ヒデマリ(日雇い労働)をしながら千三を育てる。千三がニューギニアで戦死すると「南無阿弥陀仏」とのみ書かれた墓を建立した。
セキの伝記を書いた小原徳志によると、その墓は往来(道路)に向けて建てられたという。
1985年からは年間文集「別冊・おなご」の発刊もして、調査研究を進めている。

小原のこうした活動の背景には夫の徴兵そして戦死の誤報で鉄道自殺した実の姉の存在があった。国と家との板挟みになって死んだ姉の自殺、つまり銃後の護りを十分に果たせていないと考えて死んだ姉の姿が高橋セキの姿と結びつくと言う。
セキは我が子と言う視点しか持ち合わせなかった千三を兵事には国のため兵隊に出さなければならなかった悲しみを内向によって克服しようとした。

千三忌に関する解釈は、「母親の愛」をテーマとして捉えたものが主であるが自衛隊幹部が戦死後の手厚い配慮に感動して参拝した時、小原は千三忌の意義は戦死者の供養ではなく、戦争を起こさない祈りであるとコメントしている。
また、千三の墓は「モニュメント(記念碑)」のようなもので、先祖供養のようなものではないとも述べた。

同じ「麗ら舎読書会」の石川純子は、宮城県登米郡に生まれ、東北大学を卒業後水沢の高校教諭になった。
1970年から小原と交流し、「麗ら舎読書会」の創立メンバーでもあった。
石川の千三忌への視点は、「被害者」としての母親像というものではなく、「家」に属さないで生きる選択をした小原と家制度から排除されたところに墓を建てたセキが「家」や「国」を越えた場所で出会ったというものであった。

石川はウーマンリブ運動と同時期に千三忌は始まったという。
石川は、セキの建てた不思議な墓の建立は自然の成り立ちであったとし、その背景には「隠し念仏」という古くからこの地に伝わる浄土真宗と密教が習合した秘儀の継承があると言う。
戦争未亡人は戦前からあり、戦争未亡人が置かれる辛い立場とは、戦争によって際立った「女性」という立場の辛さである。小原の姉の自殺は、戦争と性差別の交差した地点に位置し、二重の意味で犠牲者となったと捉える。

和賀町には、「七年飢饉に遭うなてな、一度の戦に遭うなてよ」という諺があるという。
戦争は飢饉が続くことより怖いとの意味である。
石川が江戸時代を生きた祖母から耳鳴りがするほど繰り返し聞かされ伝承してきた言葉だと言う。
藩境にあるがゆえに戦争がもたらす征服、略奪、強姦などの辛酸を舐めた和賀町の伝承であるこの諺を「麗ら舎読書会」では掛け軸にして毎回会場に掲げている。

まとめとして、柳原さんは、万人に開かれた息子の墓を道ばたに建立して、天皇の赤子に取られた息子・千三を自分の手元に取り戻す行為と読んだ小原麗子の既述に従い、千三忌は国家への抵抗、その気持ちを次世代に継承していく営みと捉えている。
また、和賀町における「おなごたち」の戦争の記憶を継承しようとする千三忌はジェンダーを含めた近代社会の構造を問題視する視点から見るべきであると捉えている。

【質疑応答】
ご報告に対して、次のような点について質問や意見があった(抜粋)。
・戦時中和賀町の軍需工場に働く朝鮮人労働者がいた。護国神社の有無。和賀町では見かけない。

・千三忌の活動が戦争をリアルにしている。和賀町の女性が生活史を書く事は切実な自己表現である。

・隠し念仏とお取り上げ行事の伝承。女子は5歳になるとナマンダンス(南無阿弥陀仏)を拝むと住職(管主)から「助けた」と声がかかり、一端死んで他界に行こうとする者を引きとめる(お取り上げ行事)。
その結果生まれ変わるという宇宙観の存在。

・オナゴは岩手の女性に対する蔑称。それをあえて活動誌のタイトルとする意義。

・石川純子は九州の婦人問題研究家の森崎和江(1927-)や高郡逸枝(1894-1964)に強い影響を受けたこと。

・小原と石川を相対化する。都市と和賀町のリブ運動と比較の重要性。

・戦争とともに生きる人々に関する語りを再整理することで、新たなものが見えてくる可能性があること。(記録 中原逸郎)

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朝鮮学校をめぐる非「国民」的語り──「高校無償化」除外に対する朝鮮学校卒業生へのインタビューからの考察

橋本みゆき(2014年1月30日)

7月横浜で開催される世界社会学会大会で報告予定の途中経過の報告である。高校無償化の対象から外された「朝鮮学校」の位置づけをめぐり、政治的な場のナラティブとは異なる人びとの経験をとおして何が問題として語られるかを取り出し、高校無償化の理不尽さを指摘しようとする報告であった。

報告者のねらいは、日本政府が朝鮮学校を北朝鮮の機関と位置づけ、その日本化への圧力として高校無償化問題のナラティブが流通していることに対し、卒業生の経験からはむしろ朝鮮語習得に便利などの帰納的側面が語られるなど、非「国民」「国家」的語りが語られることから、政治的レベルでの国家、国民的教育批判はあたらないとするところにあった。

インタビュー協力者は、朝鮮学校卒業生の夫婦である。
妻の語りでは、朝鮮学校経験が友だち関係など密でよかったが、大学進学に関しては役に立たないことなど機能的な側面が語られ、夫からは高校無償化への批判とともに、朝鮮学校の矛盾も語られた。

報告への質問批判としては、国民と国家、そして民族の概念の差違はなにか。
朝鮮学校の「国民」とはなにか、などの質問、また高校無償化除外への批判の文脈をライフストーリー・データから無理に取り込もうとしているのではないか、むしろ語り手の経験から朝鮮学校そのものの位置づけを検討する必要があるのでは、という意見があった。

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日常文化としての「青森ねぶた」~歴史と記憶のアーカイブ・プロジェクト(公益財団法人青森学術文化振興財団助成事業)

佐々木てる(2014年1月30日)

青森大学の佐々木てるさんからは、現在、進められているプロジェクト、青森ねぶた祭りのライフストーリー・プロジェクトの報告がなされた。
重要無形民俗文化財に指定された「ねぶた祭り」は近年、企業運行、観光資源化が急速に進み、もともとあった「生活文化」の側面が見えなくなってきている。
その市民生活に根づいた季節の行事としての「ねぶた祭り」の視点から、地元住民にインタビュー調査を進め、語りから「生活文化」を描こうとする試みである。

報告者によると青森など東北はいまだに十分に調査研究がおこなわれていない領域が多く、「周回遅れのトップランナー」あるいは「地方」のもつ先端性こそがおもしろいとのこと、そうした問題意識が、このプロジェクトの背景にあることが主張された。

いろいろとねぶた祭りについて質問がなされたが、今後のプロジェクト継続にあたって、今後、町内などの地域性に焦点をあてるか、ひとつのねぶたに関わるさまざまな人びとのライフストーリーを収集するなど、焦点をしぼってインタビュー協力者をサンプリングする必要性などの意見が出た。(記録 桜井厚)

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震災直後の住民の生活戦略--陸前高田市小友町新田地区の生活用水の事例から

桜井厚(2013年1月)

東日本大震災の津波でむらの4分の3の家が破壊された新田部落の震災直後の対応について、とくに水の確保などを事例に報告したもの。むらが独自に無被災の家を避難所に設置し、2日後には過去に利用していた簡易水道の資源から水を引く工夫をして緊急に対応した「生活の知恵」が、むらが伝統的につちかってきた生活戦略を背景にしていることを論じた。

短時間の報告で、なによりもむらの自律性や共同性にあたる「生活戦略」の説明が十分になされていないことなど、報告者も自覚している。質問は、井戸や簡易水道の伝統的な水利用がいつまでなされていたか、簡易水道の水源を既存の上水道につなぐ工夫が誰の発案か、来住者が新部落会長になったことを「能力」を評価した結果というが、中心的に活動している事務局長も来住者であり、今回の災害以前からその職に就いていることをどう考えるかなど、まだ資料的に十分でないところについて指摘を頂いた。追加的な情報を得たいと考えている。(記録 桜井厚)

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戦後のナラティブ・ターンから眺めるアイヌの諸運動と和人によるアイヌ研究の相克

新井かおり(2013年1月)

戦前から続くアイヌにまつわるナラティブが、戦後にアイヌの活動と和人の研究者によって変容させられ、マスターナラティブとなった結果、どのような理解と誤解を生んでいくのかを、代表的なアイヌの活動家と和人の研究者の言動から探る。

・まず現在のアイヌの一般情況について質問がありました。①差別はあるのか②補助金の不正などを聞くがどうなのか。→①については生活保護数や大学進学率を根拠に差別構造がある、と返答しました。②については具体的な情況によるが、アイヌの権利拡大に対するバックラッシュの側面で、過剰に語られているのではないか、と答えました。

・提案として①年表を付記すればよいのでは②節の分け方がナラティブの類型にあるものを選んでいるように見えるので、話を逆にすればいいのではないか。→今回は9日締め切りの論文なのでそこまでの変更はできないが、今後の材料にさせていただく、と答えました。③ナラティブがリアリティを捨象していくのはどんな分野でもそうなので、それを乗り越えていく貝沢正を最後に持ってきたらどうか、とありました。→そのように修正させていただきました。

・①これはナラティブ分析ではないか②法制度との関係があるのではないか③どの範囲のマスターナラティブなのか、という質問を頂きました。→①に関しては今後ナラティブ分析を視野に検討します②その場では法制度を解く論文ではないのでできないとお答えしましたので、やはり入れたほうがわかりやすく思い、少しだけ入れました③に関してはとくにアイヌの諸運動はマスターナラティブというよりモデルストーリーなのでそのように修正させていただきました。

・「アイヌという情況」として見る、ということの必要性を軸にしたらいいのではないか、とご提案頂きました。→今回の論文ではそこまで到達できないので、博士論文では検討させていただきます。

・はじめに現在のアイヌをどのようにとらえるかを出し、どのためにどのようなナラティブがとらえられてきたかと言い、最後に貝沢正を出してライフストーリー的なスタンスで何を狙いにしていたのか明確にしてゆけばいい、とご提案頂きました。→そのように書き換えました。

・最後に貝沢の見る多様性を入れたらよいとご提案頂きました→そのように書き改めました。

自分ではわかっているつもりで見えていなかったところを、具体的にご指摘頂きたいへん助かりました。おかげでなんとか論文がまとまりそうです。ほんとうにありがとうございました。(記録 新井かおり)

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一人でアルビノの多様性を語る:ライフストーリー・インタビューとして読み解く

矢吹康夫(2013年1月)

[質問・コメント]
・当事者による研究は主観的になる、客観性に欠けるといった批判を受けることはないのか。また、それにどのように対応しているのか。→ ライフストーリー研究の特徴のひとつが調査プロセスの透明化であり、それを記述すればインタビューの場で調査協力者からどのようにカテゴリー化されているかが明らかになる。固定的なカテゴリーで相対しているわけではなく、「当事者による研究」という前提自体が問われることになる。

・自分の経験的語りよりも運動の語りになるのは、私が調査者として相対しているからではないか。一当事者を相手にしているならば、ここでのインタビューのような語り方にはならないだろう。

・当時は気づかなかったことも、時間がたってあらためて苛立ちがなんだったかを振り返ることで新しい視点を発見したと言えるのではないか。

・経験的語りを重視するライフストーリー研究の前提を問う契機になりうるのかもしれない。(記録 矢吹康夫)

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