例会レポート(3月) ライフストーリー研究会

「統合失調症の娘を抱える、ある両親の羅生門的現実」 青木秀光

当日の研究会の内容を報告します。
下記の報告は、報告者青木さんによるまとめを、サイト掲載用に運営委員が小見出しなどの若干の編集を行いました(当日の参加者の方でお気づきの点がありましたら、恐れ入りますがサイト運営委員の方までよろしくお願いいたします)。

■質疑の内容

●所属

A:報告者の所属している研究コミュニティの簡単な紹介を。
また、報告者が以前に受けたことのある草稿論文への批判、「主観的であること」と「おもしろくない」という点について具体的に説明してほしい。
青木:所属は立命館大学の先端総合学術研究科。
今はそこで博士後期課程の4回生休学中なので、来年度復学しても4回生ということになる。
立命館では社会学が学べる研究科が2つある。
社会学研究科と先端総合学術研究科。後者では、いわゆる歴史社会学を専門としている人が多い。
さらに障害当事者も多く、自身の所属している団体の膨大な資料などを有効活用したりしながら運動の歴史などをまとめている方もいる。
質的研究のなかでも聞き取りからのライフ・ストーリー研究や意味世界を探求するような研究は比較的マイナーな取り扱われ方をされるような印象がある。

●これまでの批判

「主観的であること」への批判としては、桜井厚のライフ・ストーリー論がそもそも主観的で科学的ではないという指摘を受けた。
また「おもしろくない」点についてはマイノリティのなかのマイノリティの話や、ジャーナリスティックな記述方法・内容等、比較的私の研究科が得意としているような研究と照らして「おもしろくない」という指摘だったのではないかと理解している。

●家族に二人の当事者

A:もう1点、この父親は統合失調症の娘とひきこもりの娘という2人の当事者を持っているとも読み取れるが、このような複数の障害当事者を抱えるケースというのは、体感的なものでもよいのだが多いのか。

青木:完全に遺伝するなどということは科学的には否定されているが、体感的には多いと思う。
例えば、家族会のなかでも娘さんが2人とも統合失調症であるケースや、片方の親が何かしらの精神疾患で子どもが統合失調症などというケースもある。

B:今の話で、そこにフォーカスをした論文を書こうとは思わないのか。

青木:統合失調症の次女とひきこもりの長女については、前者の方の話ばかりで後者については語りたがらない。
次女については、父親自身、多くの活動が家族会や次女のケアに充てられている現状があって、意識的にも次女に大きなウェイトを割いている状態。
だから、ずっと自分が従事してきた統合失調症について、まずは明らかにしていきたい。

B:同じような質問は、母親にもしているのか。

青木:はい。しかし、語りは出てこない状態。
ひきこもっているとはいえ、家庭内でのコミュニケーションは取れていて、軽微な外出ならできる状態ということ。
より手のかかる次女のほうに意識がむくのだと思う。

●トランスクリプション

C:トランスクリプトの「みな買うてしまうような感じ」で終わってますよね。
それに対して地の文で「格好悪」く、「早く連れて行」くために「みな買うてしまう」という文脈がよくわからない。
だから、格好悪いから早く連れて行かなくてはいけないと、お母さんの方では思ってしまうということか。
「買うてしまう」というのは、ずっといたら、色んなものを買ってしまうということか。
要するに、トランスクリプトを読んでいると報告者が今、口頭で言ってくれたらわかりやすいけれども、それでも一応関西弁だから、わかりにくというのが若干ある。仕草に関しても、それを記述する。あと句読点とかは、細かい話ですけどもしっかりと打つ。
それと、会話分析ではないので、本当に意味のない「あ、」とかをあえて入れなければならないほど忠実でなければいけない必要はないと思う。
文章がわかりにくくなるので、その言い間違いに意味があるのならわかるが、それは、ある程度考えて書くと良いと思う。
青木:例えばもう、ある程度、関西弁を標準語に直してしまうというのは、どうなのか。

C:話している人自身が「私ではない」って言うことを指摘されたら困ってしまうので、それはちょっと無理。
関西の出身の人でも、わかりにくいところがある。だから3~5行程度続いたら、そこで止めて下に解説を標準語で書くと良い。

●状況の説明について

B:「はじめに」の2行のところが混乱しました。もう少し書き直すと状況がわかりやすくなっていくと思う。大きな事件の方から扱って、その後実際の対象者であるお父さんとお母さんを出してくるっていう手法を使っているが、私の場合だったら逆に書くかなっていう気もしなくはない。

D:タイトル、統合失調症とまとめてしまって良いのか。私自身、双極性障害を持っている。そのなかで、私は軽いほうだが、統合失調症も恐らく同じように軽度と重度あると思う。ここに出てくる次女は、障害者手帳1級。そこをひっくるめて統合失調症と、まとめてしまうのは良いのか。

青木:例えば、重度の統合失調症とかに呼称を変えるべきという話なのか。

D:もう少し状況を説明するようなことを入れるべきかなとは思う。

●「羅生門的現実」

C:タイトルに関して、「羅生門的現実」という言い方を使っているのが、どの程度その意味合いがここに出ているのかを内容としては書かないといけない。
父親と母親の物の見方の違いっていうのはわかるが、「羅生門」って、ストーリーがあるわけなので、現実っていうのが単にあることの多様性、リアリティではなくて、本当にストーリーとして全然違う文脈のようなものがイメージされやすいので、その辺を単に多様性という言い方ではなくて、おさえておく必要があると感じる。
このタイトルを使ったことによって、「おもしろそうだ」って思わせてしまう効果はあるのだけれども、その点に関しては肩透かしになっている。「色々あるよね」っていう話になってしまう。

●現実の捉え方

D:もう1点。統合失調症ではなく、精神障害とかもっと大きな枠組みの方が良いのかと思う。もっと大きく見られるのかと思う。

E:私はちょっと、Dさんと違っていて、統合失調症っていうのは陽性症状が出るから、そこが1番他の疾患と違う。たぶん、ここのストーリーのなかに、陽性症状が出た時の親の対処とか混乱が、羅生門的現実だと思う。
だけど、そこが抜けてしまっている。そこは6年間のインタビューでは出ていると思うが、それを集積していったらこのストーリーはすごく面白くなると思う。語りの抽出の部分を改善してもらえれば、わかりやすい。

青木:書かなくてはいけない点を忘れていた。
陽性症状に関して、この娘さんの妄想だったり、統合失調症がゆえのっていうところで、先ほどの買い物の部分っていうのは特徴的で、この方の妄想っていうのは「お金が溢れるようにある」っていうもの。お金に執着がある。
普通であれば陽性症状から陰性症状に変遷するが、治療抵抗性とも言われて、ずっと陽性症状(妄想)が続いているのが、このケース。それを加筆修正しなければならない。

C:今のEさんの話と解説を聞いていると、統合失調症であることの捉え方っていうのは非常によくわかる。
むしろそれと、親たちの戸惑いみたいなものをうまくリンクさせてくれれば、確かに羅生門的っていう現実の面白さがリアルに出ていると思う。
むしろ積極的に、統合失調症であることのそれに対応する父親、母親の対応の違いを出すと面白い。

青木:後は、誰かがいるという妄想があって、その症状が公の場で表出したりするために母親は世間体を恥じる一方で、父親は迷惑が掛からない程度であるならば仕方がないという考えがある。
父親、母親は妄想の捉え方と接し方が違う。
母親は、娘と対立しがちになる。
しかし最近になってきて、父親も娘への対応に疲れがみえてきている。
現在、父は娘との接触を避けている。

E:例えば、家族の新興宗教への入信だとか、悪霊が見える妄想などを追い払う場面などとか読み手が知りたい部分が欠けているから「羅生門的な現実」を感じ取れないのだろう。
それらをもっと足すべき。

F:地域性を大事にしてほしいので、言葉は絶対に直してほしくない。
発症原因について興味があるのに、その説明や語りがない。
なおかつ理想的だが、例えば中野紀和さんの小倉祇園太鼓のように、夫婦で言っていることが相反しているという語りをずらっと集めて、その原因と、それに対する耐性、どこまで耐えられるのか、それが重なっていくと母親のようになって、冒頭にあるような、もう殺してしまうしかないような状況に追い込まれて社会的な病理としてあるという感じに持っていけるように思える。
完全に調査者と被調査者が没入してしまっている理想状態ではあるが、一度そこを離れて解説した方がよい。
自分の身内でも家族内での原因などで発症しているケースがあるので個人的に興味があり、なぜそれをさらっと流しているのか。

青木:それは、偏見を生むのではないかという思いがある。
統合失調症の原因が未だにわからず、歴史的には家族が病因とされてきた間違った見方がある。
原因を安易に想定することには私自身、抵抗がある。
ただ、両親が意味づける原因を科学的ではないが、描写は良いと思う。

F:何か中年になって突然発症している感じがある。
それ以前が気になる。
発症の兆候的なものを察知したような語りは、ないのか。

青木:端的にいって、「突然」という感じ。

F:色々なことは推測するけれどもわからないものは、わからないという点については分析すればよいと思う。

●統合失調症を論じる方向

G:統合失調症には4つぐらいの型があって、例えば破瓜型などの症状・診断名が付いていると思うが、その点は何になるのか。

青木:学派によって、破瓜型と付ける、付けないが存在して、両親自身も診断名などを詳しく把握していないと思う。

G:今やありふれた病気になったはずの統合失調症だけれども、世間と科学や当事者とのギャップがあるので、その点に触れてほしい。
最初に、精神疾患を抱えた子を親が殺害する事件に触れていて、そのような事件にならない希望としての今回の事例提示かと推測したが、話が進むにつれて、やはり暗い結末へと向かうのではという不安に襲われた。
家族や当事者が「生き生きと暮らす」と書いているが、一億総活躍社会ではないが、みんながみんな「生き生きと暮らす」べきなのかは疑問。

青木:実態を提示して終わりというふうにしたい。
結末として、こちらが解釈した後はあなたも考えてくださいというふうな終わらせ方にしたい。
社会福祉学系論文の型では、希望を語るのがベストであるが、それでよいのか悩んでいる。
最初の段階で、支援に触れているが、これが支援につながるのか、つながらないのかもわからないのが実際のところ。
何か解決策を書いて理想を語るのはよいのだろうけれども、どれも似たような結論になりがち。
例えば地域包括型支援(ACT)を導入するという結論。海外に学んでいこうという結論。

●家族会

H:地域家族会の会長である父親は、長期入院から地域へという流れのなかで、どのような貢献や考え方を持っているのか。

青木:個々が個々で考えていけばよいというのがある。
家族会の現状は伝統的な組織ではあるが、高齢化も進み、お茶のみ会程度のもの。
社会運動をしていこうというような希望の語りや提言が一部の社会福祉のなかで語られるが、8050問題というように80歳の親が50歳の当事者を抱えるような現状があり、とてもじゃないけれど社会運動をしていくような気力はないうえにそれでも「社会運動をしていこう」という掛け声は酷なもの。

H:実際に精神障害当事者に対して家族会が主にする支援はあるのか。

青木:特にない。昔は、当事者のために作業所を作るなどの運動があった。

B:若い親が存在しているなかで、家族会に新規参入しないのはなぜか。

青木:この地域で言えば、1つに官僚的な支配がある。
他のセルフ・ヘルプはどうなのかわからないが、先行研究のなかでも精神障害者家族会のこの手の話に触れるのはタブーである。
全家連(全国精神障害者家族会連合会)という組織もあったが、一部の家族と官僚の癒着などがあり潰れてしまったという経緯もある。
なので、若い人は若い人で集まっているとは思う。
全家連以後の2つの旧態依然とした全国規模の家族会組織が支部を持っている現状で加入率も低い。

⇒補足 そもそも精神障害という特質も関係がある。精神障害のなかで半分を占めるのは統合失調症であり、その発症は青年期頃になる(具体的には大学生ぐらいの年代)。親は第二の人生を迎える時期に子どもの発症と向き合うこととなるために、知的障害などの先天性障害と比べると随分と年が違うことになる。

●意味世界の探求と論述スタイル

J:意味世界を探求すると言っているが、報告者の立てた視点で分析した語りであるからFさん、Mさんの独自の意味世界がどのように作られて、そのなかからこのような視点が出てきたのかというのが見えない。全体的なものが見えない。
FさんとMさんと娘との独自のストーリーを必然性ある形で提示するべき。
もちろんそれは、報告者の解釈も込みで。一足飛びにどんな支援や政策があるというのでなく、ライフ・ストーリーにもっと入り込んで人の生きる姿から見つかるものがあるのではないか。

F:(レジュメ上の)線を引いたところの意味について、選別した理由も込みで、もっと詳しく語ってほしい。

J:論文の書き方で、今これは父と母が交互に出てきているが、父だけ母だけのライフ・ストーリーを出した後で、一番最後に考察として小見出しにあるようなものを抽出していく方がよい。今の書き方では、細切れでわかりにくい。
先にこの小見出し部分を聞くために調査したかのように思われる。
そうではなくデータに語らせるなら、後からこういうものが抽出されたという出し方のほうが説得的。

C:論文の書き方というなら、論文編集委員をしていたらかなりの書き直しを要求する。
内的世界の何を明らかにしたのか、要するに論文のテーマがわからない。
羅生門的現実という夫婦のストーリーの違いを焦点にしているのか。
「はじめに」の事例を読むと、踏みとどまっているFさんMさんがいて、次に世間が出てくるので。
ところが何かそれを踏みとどまらせるようなことがあり、話がまた横道にそれていくようなところがある。
家族会の話が出てきているが、家族がある社会とどのようにリンクしているのかがポイントとなるかと思ったが、どうもすんなりそうとも読み切れない。テーマが拡散していく。
はじめの事例はすごくインパクトがあるが、それがどのようにつながるかわかりにくい。
ライフ・ストーリーの面白さは出ているがそれを生かさなくていけない。報告者の解釈をもっとしっかり出していく必要がある。つながりをつけてほしい。それが知りたい。全体を構成し直してほしい。

●ライフストーリー論

D:ライフ・ストーリーを使用する時に科学的手法とどのように折り合いをつけているのか。

青木:再現可能性だとかは、無理だということを言っている。現にそれらをしている学者(桜井・蘭など)がいるということを言っている。開き直って超主観的だとも。

J:関連して、先行研究の批判的検討と言っているが、先行研究を批判して自分の事例を出してきてはいるが、最後の考察で、それらをどう評価するのかが書いていないので、どのように受け取ってよいのかわからない。この方法でやったことによって、先行研究では見えなかった何が見えたのかを明らかにしてほしい。

A:研究手法の選択理由について「聞き手が聞きたいことだけに限定して、話し手とのインタビューにのぞむとなると、相手はすんなりと自身のことを話してくれるだろうか。」というような問題意識について、相手が自分のことをすんなりと話してくれるということが、今回の手法選択理由でよいのか。
つまり話してくれないことも分析対象になりえること。
また、報告者自身の固有性をも含んで相互行為がどう成り立っているのか明らかにすべき。
もうひとつ関連して、トランスクリプトで「やっぱり」という言葉がインタビュイーから多く発せられているが、これは報告者だからこそ対象者が使用している言葉にもとれるのでは。「やっぱり」の前には、世間体ではない個別的な解釈を試みているような気がする。
それは聞き手のポジショナリティに関係しているのでは。
世間体を克服したいが、「やっぱり」世間体に戻されるという往復は何かしらのトライアルという点でも解釈できるし、これは軽く秘密を打ち明けられているとも理解できないだろうか。

青木:一番記憶に残っているのは、母親がすんなりとインタビューに応じてくれたこと。
家族会に抵抗があるという人が話してくれることを疑問に思った。
終わった後に「誰にも言えないことを話せてすっきりした。ありがとう。」と言われたこともある。
それについてはずっと不思議に思っていた。

K:母親にとったら報告者は、世間体の外部からやってきたために取り繕う必要がないための「やっぱり」。
わかってくれるという「やっぱり」ではないのか。

F:冒頭の目的に戻るが、ただの世間話ではなくして研究者として、何らかの解決を導こうとしているがために母親は報告者に真剣に向き合っているのではないか。

C:恐らくそれは世間と自分ということをよく表しているものなので、報告者がしっかりと解釈を入れていかなくてはいけない。
トランスクリプトにまかせてしまってはいけない。
語られていない部分を書かないといけない。
対話的構築主義が相互行為を強調しているのは単に長い付き合いをしたから語ってくれるということではなく、やりとりのなかで「私」に語ってくれるということ。
このようなポイントを書き込むことが相互行為、インタビューの聞き手としての「私」を出すということ。
だから付き合いが長いということは別の話。

K:「やっぱり」とは言い慣れていないことを言うこと。
ためらいながらの語りでもあるのでは。
「やっぱり」というからこうだということに重きを置くよりもFさん、Mさんとの報告者の付き合いのなかでそれを解釈できるのだろう。
それに先ほどの「話せてすっきりした。ありがとう」という語りも場面や空気がわかる。
語りを切り分けるよりも、生きたFさんMさんの世界を完結させるところをみてみたい。

B:前回、聞いたことと違うことを語る人がいるなかで自分が警察の尋問のように事実を確認してしまうことがあるのだが、それはやめたほうがよいのか。

C:やめたほうがよい。

B:博論では、前回と違うことを言う人で悩んだ。

C:そのこと自体(なぜ前回と違うことを言うのか)を分析することも興味深い。
ふたつのヴァージョンがあるなかで、どのように解釈するか。
事実関係はどうなっているかということでの確認はできるが、意味付けはそうではない。

●希望の物語

D:自分自身が障害当事者として、20年後、30年後の両親はこのFさんMさんのようではないかとも思えると、他人事ではない。このFさんやMさんは、なんらかの希望を持っているのか。

青木:実際に「希望がある」と言っていた。
実際にFさんに論文を見せたときに「俺は(次女の治ることについて)諦めていない」と話していた。
次女の回復見込みについては、脳への電気ショックや北欧での薬剤を使用しない治療方法であるオープンダイアローグがあるということを言っていた。
また、父親は株をして儲けようとしているので、お金を稼ごうとしているのは将来へ向かって生きていくという見込みを持った行動なので希望だともとれる。
母親に関しては、趣味のカラオケとゲートボールの楽しみが希望として挙げられる。
さらになんらかの形で文章化したいと思ったのが、報告者の自己変容に関してだが、オーバーラポールと批判されるのではないかと気にしている部分がある。

C:あまり気にしないこと。そういうことを捨てたから今研究しているのでは。

青木:よくFさんと電気屋に行ったり、車屋に行ったりすると、子どもとその父親みたいにみられるのがうれしい。
例えば店の人が「息子さん?」とFさんに聞いた時に「まぁ、そんなもんよ」と答える場合や、Fさんが「違うよ」と応答した時でも、店の人が「じゃあ娘さんの(夫)?」と続けてFさんに言って「だったらいいんだけどね。」みたいなやりとりが心に響く。

D:個人的な希望で、少しでも明るい話が聞きたいというのはある。

青木:もうひとつの違う母親の事例があり、そちらは希望の物語として用意はしている。
母親もその障害当事者の息子も高齢であり、障害も一見、重度で変化がないように思えたが長年の付き合いのなかで親亡き後に備えてのショートステイの練習が身についてきて、今では1週間のうち5日はひとりで生活ができるようになっている。
L:障害者の家族の研究では、家族を簡単に悪者にできる。
そのなかでも家族を簡単に切り捨てるなという言説が少しある。
ここで挙げられている先行研究では支援につながるような機能論的なものになっていて色々なものが切り捨てられてしまう。
例えば先ほどの母親の趣味の楽しみなどの話しが出てくるだけでも読み方として変わってくるのでは。
希望が持てるかはわからないが、すごく切り取られた事例ではなく個人として捉えられるだけでも随分と変わるのでは。
それがライフ・ストーリーにできることと言えるのかもしれない。

●まとめ(当座の見立て)

多くの貴重な意見は、どれも考えさせられるものであった。
まずは基本事項としてトランスクリプトの見やすさと全体的な構成の練り直し(父・母の交互表記を変更)をしたい。
コメントに出たように統合失調症の症状に対しての父親と母親の対応の差異に焦点化するのがよいだろうと考える。
筆者にとっては「当たり前」となってしまっていた統合失調症という精神疾患が引き起こす症状への対応をみることで、そこに父親と母親の羅生門的な現実が表出するのではないか。

その時に肝要なこととして報告者の解釈を多分に盛り込むことや、報告者であるからこそ成り立っている相互行為という面に着目することで対話的構築主義と呼べるものになるだろう。
先行研究の検討においては、支援を構築するための論文が見落としてしまうことに焦点化する。
それらは①個別性、②関係性の2つである。
前者においては、生活者としての家族を詳細に捉えきれていないこと。
後者においては、家族も支援者も一人の生活者であるからこそ持つ多様なバックグラウンドにおいて、いかに関係を取り結んでいくのかにつき言及されていない点が挙げられる。
それらには、1つに、距離をとった支援対象としての家族の捉え方があろう。
つまり主体―主体の問題としては捉えきれない限界が先行研究にはある。
以上を主眼としての本研究の位置づけを明確にしたうえで当該テーマに焦点化して再構成していくことができるのではないだろうか。